第 84 週 平成21年7月5日(日)〜平成21年7月11日(土) 

第85週の掲載予定日・・・平成21年7月12日(日)

詩歌時代
(5p目/6pの内)





 挿画 児玉悦夫

 五日以降、『詩歌時代』の続、廃刊をめぐる牧水の煩悶が毎日の日記に記されているが十日になって遂に廃刊の意志を固めた。
 七月十日 晴 大体廃刊にきめ、来ている分の誌代に相当するだけ刊行すべしとて、第四号分原稿その他の事にて耕文社に行く、これにて心やや凪ぐ、床屋に寄る。
 十一日 晴 廃刊の事にきめて、心軽くなりぬ
 悩んだあげく結局は廃刊やむなし、と心に決めた牧水だが、長年の夢であった総合文芸誌であり、世間でも好評だ。迷いが残って当然であった。ある日、
  『利雄さん、なんとか君が続けてみないかね。僕は一切手を引くから君が思い通りにやってみるんだよ。当分赤字は続くだろうがそれだけは僕が責任を持つよ。月々百円までだったらなんとかなるから、ひとつ奮発してやってみてくれないかね』。
 未練げに持ちかけた。百円と言えば当時大変な金だが、牧水はその頃、毎月三、四百円の収入があった。無理すれば赤字補填は可能であった。
 だが、大悟法には毎月の赤字を百円以内で押さえきる自信が持てなかった。
  『先生、折角のお話ですが、やっぱり無理です。それより廃刊まで恥ずかしくない雑誌を作りましょう。そうすればまた再刊の道が今後開けないでもないと思いますがー』。
 若いけれど常に堅実な判断で物事を処理して牧水から絶対の信頼を得ていた大悟法は、この時も感情に動かされることなく冷静に考えてそう答えた。
 これで『詩歌時代』の廃刊は本決まりした。ただ前払いしている購読者もいることなので第六号(十月)をもって終刊号とすることになった。四号以下は、経費を節約しながら牧水の名を汚さぬ雑誌にすることを基本方針に編集にあたった。
 特に終刊号は全誌面を『新人紹介号』とし、詩歌壇の大家中堅三十八人から新進詩、短歌、俳人七十六人を推薦してもらって一堂に紹介した。これまでにない企画で読者の興味をひくに十分であった。
 それより読者を驚かしたのは寝耳に水の『廃刊あいさつ』であった。
 牧水は『編輯だより』に『相当の準備と決心とを以て事を起したのでありましたが要するに駄目でありました。経営の不備資金の不足と一は小生の不健康にも因る所でありました』と述べた。
 大悟法は『営業としては失敗した。しかし事業としては成功した、こんなことは言えないものだろうか、私はいまこう思うことで自ら慰めようとしている』と ゛所感″を記した。

 『詩歌時代』は六号で廃刊になった。創刊から半歳、花の生命のように短かった。そして牧水に残ったのはつかの間の光芒と多額の借財てあった。
 八月九日、東京の延岡中学の同窓で建築家村井武にあてた手紙に当時の牧水の思いが切切とつづられている。
  『(詩歌時代創刊に)この正月から小生の全てを挙げて狂奔した。そして見ごとに失敗して八千円ほどの穴をあけてしもうた。雑誌はあとー、二号で廃刊、その穴埋めのため小生は来月早々また半折行脚に北海道三界へ出かけねばならぬ。君なんかに対して衷心慚愧を覚ゆるが、もう然しこれがおしまいだったろう。もうこそこれでー切事無かれ主義で押し通し、三猿主義一点ばりになろうとおもう。どうか笑わないでくれたまえ』。
 牧水四十二歳にしての挫折てある。幼な友達に対して傷心を赤裸々にしている。
 だが、牧水にその生傷をなめ、いたわっている時間はない。土地、家代と新たな借財の返済のため他に方途のない揮毫行脚に出かけねばならなかった。今回は北海道だ。
 八月中に太田平、平野行彦、斎藤瀏ら北海道在住の歌人、社友に手紙を出して頒布会開催の協力を依頼した。
 出発は九月二十一日。『詩歌時代』終刊号の発行を見ぬまま喜志子と二人゛赤モウセン゛を携えて沼津駅から立った。
 この日午前二時、家族全員を起こして赤飯を食べ道中の無事と頒市会の成功を祈った。午前四時、夫妻は人力車で沼津駅に向かう。明け初めた門ロまで中学一年生の旅人、小学五年のみさきと幼い真木子、富士人が見送った。四人の子供らにまた長い留守居が始まるのである。
 これより先、牧水は千本松原を伐採の暴挙から守るために一世一代の演説をしている。牧水が沼津市の市道町に新居を構えたのはこの松原あるゆえである。ところが、静岡県が県の財源にあてるため千本松原の一部を伐採する計画を立てた。
 それを知った沼津市民が反対運動に立ち上がり、牧水も地元の『沼津日日新聞』や東京の新聞などに千本松原を守る文章を書いた。
 九月十一日夜には市内の劇場国技館で『千本松原伐採反対市民大会』が開かれ、牧水が進んで登壇して演説、同伴の大悟法まで飛び入りで熱弁を振るった。日頃、演説など好まない牧水としては珍しいことで、それほどに千本松原を愛していた。伐採は中止された。
 長女みさきも同行していて、父が『自分の子供たちのためにもこの類まれな美しい松林を永遠に守らねばならない』と述べた一節を幼い頭に記憶している。
詩歌時代
(6p目/6pの内)




 挿画  児玉悦夫
北海道の旅
(1p目/4pの内)




挿画 児玉悦夫

 牧水夫妻は東京で揮毫用品を準備して午前十一時四十分上野駅を出発した。
 午後八時過ぎに福島駅着、古い社友らに迎えられて福島ホテル泊。そのあと二十二日盛岡、二十三日青森と泊って二十四日朝の青函連絡船で津軽海峡を渡り午前十一時五十分、牧水、喜志子ともに生まれて初めて北海道の土を踏んだ。同夜九時半に札幌に着き山形屋旅館に入った。『北海タイムス」の記者千田迅一郎と社友の谷口波人らが途中の駅に待ち合わせて出迎えていた。
 二十五日は市内の植物園、札幌大学、月寒牧場などの名所の案内を受けた。月寒牧場に着いたのは夕方近かった。ただ雑草ばかりの野原の果てからやがて百二、三十頭ばかりの緬羊が若い牧夫に追われて姿を現わした。メーン、メーン。北国の夕空に緬羊の澄んだ声が広がって消えた。見ると傍の喜志子がハンカチを両眼にあてている。
  『馬鹿だなア、お前まで泣かなくてもー』。
 牧水は笑ったが、彼も言い知れぬ深い感動をこのやさしげな動物の群れに覚えていた。
 夜は大学の講演会に臨み、二人の講師に統いて最後に約一時間、『歌に就いて』語った。
 二十六日は午後一時から寺院を借りて歌会があった。小樽、岩見沢、新琴似などから未知の社友らが顔を出した。
 その夜から市郊外の宿に移った。市内では相客が多くて騒々しいだろうという社友らの配慮であった。
 二十七、二十八日はこの静かな旅館で終日揮毫の筆をふるった。付近にはカラスが多く庭先でくわえてきた野ぶどうを争って食っているのが見えた。
 二十九日朝、札幌を発って岩見沢駅に着いた。広大な石狩平野と石狩川の長流が夫妻の眼を楽しませてくれた。
 駅には若い社友の太田凍影がまだ娘々した細君を伴って迎えていた。太田方にいったん落ち着いてから、午後、太田が教鞭をとる岩見沢中学校で講演した。
 講演のあと、同校の校長江原玄次郎と雑談中に牧水が延岡中学時代最も強い影響を受けた初代校長山崎庚午太郎と彼が中学時代に同級だったと聞いて驚いた。奇遇であった。
 夜は空知会館で歌会が開かれ、札幌から谷口、千田の二人もかけつけた。閉会後、彼らも一緒に大田方に行き、真赤な炭火を山盛りにした囲炉裏を囲んで酒になった。
 三十日も土地の農学校で講演会。学校の農園や施設の立派なのに驚いた。牧水は二十七日、札幌大学を見たあと沼津の旅人に『君が上の学校にゆきたければ此処の学校がいいね』と絵葉書に書いてやったが、北海道の学校には雄大な自然の息吹があった。

 太田方には二日まで滞在、この朝夫妻に見送られて旭川に向かった。
 太田は三ヵ月程前に新家庭を待ったばかりだ。彼が六畳二間切りの狭い家だが、是非共わが家に泊って欲しいと便りを寄越していた。北海道行きの決心の半分は彼のこの熱い誘いに依った。来てみると三間の家だった。牧水夫妻のために借りかえでいた。
 旭川駅には昼近くに着いた。出迎え人多勢の中に軍服姿の斎藤瀏の巨躯があった。斎藤は信州安曇の人で陸軍大佐。当時、旭川の第七師団の参謀長で牧水より六歳年長だ。
 作歌は日露戦争中からはじめ佐々木信綱の 『心の花』の同人だった。後に二・二六事件で叛乱幇助で下獄することになるが、この頃は文武両道の軍人として民間に人望があった。
 旭川には同日から六日まで滞在するが、この間ずっと斎藤の官舎に厄介になった。同家には夫人と長女史(明洽42年2月14日生)がいた。史は父の影響で早くから作歌に親しみ 『心の花』『アララギ』に属した。後年、多くの歌集、随筆を出版して文壇の注目を浴び、昭和三十五年に長野県文化功労賞を受賞する。
 その頃はまだお嬢さんで、父と一緒に牧水の案内に立つときなどぬかるみをさけてひょいひょい跳び歩く姿がなんとも優美だった。

 枯野原霜どけみちを行く時し君が手のふり美しきかな

 また、牧水は九月二十八日、札幌市郊外の札幡温泉藻岩館から斎藤あてに便りを出していた。酒と肴のことだ。
  『−なお、お言葉に甘え、御宅に御厄介になりましてもよろしゅうございましょうか。甚だ厄介な人間でございますが、酒を毎日一升平均いただきます。(中略)おさかなは香の物かトマト(生のまま塩にてたべます)かありますれば充分でございます』。
 斎藤は牧水の没後、創作追悼号に『このていねいな遠慮勝ちな態度がうらめしいくらいだった』と書いているが、実際には連夜ぜいたくな酒宴になっている。
 三日夜は市内の神社の社務所で歌会が聞かれた。汽車で二三時間の遠方から出席するほどの盛会で岩見沢の太田凍影も来ていた。
 歌会のあと料亭で宴会になった。感激の余りだろう平生下戸の太田がすっかり酔ってしまった。牧水は斎藤に頼んで官舎に一緒に連れ帰った。ところが車を降りたとたんに彼の姿が見えない。牧水夫妻が濃い霧の中を探したところ生垣の中に倒れ込んでいた。
 牧水が部屋にかつぎ込むと、太田は意識もうろうの中に『お父さん、お母さん』と泣きじゃくっていた。牧水は『うれしいんですよ』と言い、斎藤も目をうるませていた。

   
つづき 第85週の掲載予定日・・・平成21年7月12日(日)

北海道の旅
(2p目/4pの内)





挿画 児玉悦夫
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