第 85 週 平成21年7月12日(日)〜平成21年7月18日(土) 

第86週の掲載予定日・・・平成21年7月19日(日)

北海道の旅
(3p目/4pの内)





 挿画 児玉悦夫

 旭川は六日朝立った。着いた翌日に斎藤と史の父娘に案内されて登った付近の丘『春光台』に出発前のあわただしい時間をさいて今朝も行ってきた。はるか旭川平野の向こうに大雪山連峰が見えた。頂には数日前に降った新雪が朝日に輝やいていた。

 兵営の喇叭は聞ゆ暁のこの静かなる旅のねざめに

 遠山に初雪は見ゆ旭川まちのはずれのやちより見れば

 旭川駅には滞在中知り合った人たちなど出迎えの時より多くの見送り人がいた。斎藤は軍務の時間をさいて深川駅まで同車した。
 深川には社友の鬼川俊蔵医師が往んでいる。駅から同家に直行、早速酒宴になった。鬼川、斎藤らがしきりに留めたが振り切ってその夜の泊地増毛に行く汽車に乗った。
 夜遅く増毛駅に着いた。未知の人今泉辰之助か迎えていて増毛医院に案内された。今川六郎院長が歌好きで、創作社友でもないのに二人で世話を引き受けていた。
 翌日は医院の一室で歌会が催された。軒と雨戸を激しく打つ霰の音を聞きつつ歌を詠む。

  石狩国深川町鬼川俊蔵君方にて

 ゐろりばたに大き鉢ありて茹栗のゆであがりたる満たしたるかも

  増毛にて

 音たてて霰降りすぎし軒さきにいま落葉松の落葉散りつつ

 以後、深川に引き返して一泊、名寄、北見、紋別、網走、池田、帯広と各地で歌会と頒布会を開いて回った。十八日には旅程の変更で五日間ほど余裕ができたので二十二日まで登別温泉で休養した。
 その間は連日の強行日程と酒であった。また熱燗の酒をあおらねばならぬ寒さであった。
 二十二日には帯広に引き返した。身体の芯まで凍る厳寒で持病の痔疾が出た。
  『冷えるのでお尻から血が出初め、惶てています。神部さんにきょう薬貰い、ズボン下を三枚くらいはきます』
 帯広の神部医院から沼津の大悟法あてに出した手紙の一節だ。神部医院の神部哲郎院長は沼津市楊原の出身で、牧水が大正九年夏に楊原村に転居するさい借家の世話してくれた早稲田の学生神部孝の兄である。孝は当時早稲田学院の教授をしていた。

 あきあぢの網こそ見ゆれ網走の真黒き海の沖つ辺の波に
                            (網走港にて)

 池に落つる水は冬なりガラス戸にゐてあそべるは赤きあきつなり
                             (池田町にて)

 おこし急ぐ炭火ほのかに熾りつつ今は本降となりし雨かも
                             (帯広町にて)

 帯広から降りしきる雪の中夕張炭田の各地を回って三十一日に夕張町に行った。

 夕張町には炭鉱会社に勤務する甲斐猛一がいた。甲斐は牧水と尋常高等科、中学校時代からの級友で東京遊学中も往来していた。
 大正二年、彼が北海道に渡るときには東京神田の旅館で別盃を汲んだし、同七年には北海道から延岡に帰る途次に神田明神あたりの小料理屋で痛飲した。それ以来の再会だった。北海道の旅は未知の人ばかりの中を歩いてきた。皆が歓待してくれるが、その分だけ気苦労もあった。
 旧友の家を訪れて牧水夫妻はようやくくつろぐことがてきた。同家に約十日間滞在したが、その間に甲斐の案内で坑内も視察した。

 白雪の積めるがままに坑木はいま坑内(しき)ふかくおろされてゆく

 その後も岩見沢、札幌、新琴似、小樽、函館と泊り十一月二十三日、冬の気配の津軽海峡を青森に渡った。
 青森から盛岡、福島、三春の各地で頒市会を開き沼津に帰り着いたのは十二月六日夜であった。九月二十一日来明に家を出てから実に七十七日間に及ぶ長旅てあった。
 この間に詠んだ歌は二十一首。揮毫が目的の旅であったため歌を詠むだけの余力が精神的にも肉体的にも乏しかった。
 その目的である半折頒布はどうだったろうか。十月五日に旭川の斎藤方から大悟法あてに出した手紙からその一端がのぞかれる。
 札幌、小樽で百口、夕張口、旭川七、八十口、岩見沢三十口、池田帯広三、四十口、増毛三口、紋別遠軽二十口、網走二十口、室蘭五十ローと言ってやっている。だが、これは牧水の見込みであって実際にどれだけの入金になったか定かではない。
 疲れ切って帰って来た牧水夫妻だが、家と上地、それに『詩歌時代』赤字の借金を埋めるには程遠い収入でしかなかったであろうことは容易に想像できる。
 十二月中は家にいて選歌、紀行文の執筆に多忙の日を送る一方で、歌も作ったが、頭の隅から借金返済の件が消える暇はなかった。
 ただ、同月二十日頃詠んだ『椎の実』と題する一連の歌に疲れのなかのひとときのやすらぎが見られるのが救いであった。

 ふるさとの母にねだらむとおもひゐし椎の実をけふ友より貰ひぬ

 われはもよわらはべなりき故郷の山に椎の実拾ひてありき

 暁の四時といへるに濁り起きゐて椎の実を炒るよ夜為事のあひに

 二十五日には大正天皇が崩御され昭和と改元された。牧水は直ちに『奉悼の歌』七首を謹詠して創作(新年号)に発表した。

 神去りたまひぬといふよべの夜半についにとこしへに神去りたまひぬ
北海道の旅
(4p目/4pの内)




 挿画  児玉悦夫
鶴まふ旅路
(1p目/3pの内)




挿画 児玉悦夫

 昭和二年元旦。諒闇のため年賀客の往来がなく静かなというより寂しい元日になった。ただ、未明に起きて歌十四首を作った。

 年ひさしくむつみ来りぬ元日の今朝寿詞(よごと)申すわが古妻に

 濡縁の狭きに立ちてをろがむよわが四十三のけふの初日を

 二日は午前三時に起きて六時までに歌五十余首を作った。近来にないことであった。この調子はこの月の下旬、風邪を引いて寝込むまで続いた。五日から昼酒を止めてみたのがよかったのだろう。歌も静かな調べであった。

   『鮎つりの思ひ出』

 まろまろと頭禿げたれば鮎つりの父は手拭をかぶりて釣りき

 幼き日釣りにし鮎のうつり香をいまてのひらに思ひ出でつも

 釣り暮し帰れば母に叱られき叱れる母に渡しき鮎を

   『竹の歌』

 日照れば濃き影落し雨降れば濡れてしだるる竹をわが愛づ

 北向きのわが窓さきに並びたちそよぐともせずこの痩竹は

   『炭 火』

 山に生ふる木々はうつくしみな親し焼きて作れるこの炭もまた

 熾りたる炭火のさまをよしとおもふ猛く静けくてはかなきぞよき

 一月中は新城町に前年十一月死亡した金沢修二の墓参と長岡温泉橋本旅館に家族連れで行き、二月には静岡まで出かけて鞠子の宿丁字屋のとろろ汁を食べてきただけで旅らしい旅はしなかった。
 風邪は一月末の一週間床についただけで治ったが、その後健康がすぐれず二週間ほど朝、昼の決まりの酒をやめたほどだった。それも暖かくなるにつれて回復してきた。
 そうなってくると頭をもたげてくるのは借金返済の重荷であった。揮毫会の代金で埋めてはいるがそれでも一万六千円ほどもあった。その返済のためまた赤モウセンを携えて旅立たねばならなかった。
 今回は、当時の朝鮮各地を目ざすことになり、三、四月中を準備期間として五月四日、喜志子を伴って出発した。
 四日午前十時五十分沼津駅を出発した夫妻は大阪、広島、下関を経て十日午後四時に延岡市北小路の谷次郎(自路)邸に着いた。
 そこに一泊して翌日はまた北上、途中大分駅に下車して大分新聞社て揮毫会の打合わせをして下関に向かった。戸畑、八幡の社友方に寄って十六日午前十時、関釜連絡船『昌慶丸』に乗船した。初夏の玄海灘の波浪は荒く、牧水の胸中には一沫の不安があった。

 牧水は、多額の借金をかかえてはいるか、その返済資金を得るための揮毫行脚は今回の朝鮮半島各地の巡訪で打ち切りたい考えだった。各地の社友や友人知己に世話を頼むのが心苦しかったし、それに重なる旅行で健康を著しく害していた。
 ただ、今回限りとなると今度の行脚を実り多いものにしなければならない。そのために往復の時間を利用して延岡と宮崎でも初めて頒布会を聞くことにした。
 三月初めから松江高校教授の平賀春郊に手紙を出してその旨を伝え、両所ての開催発起人の斡旋を頼んだ。
 その結果、宮崎では若山甲蔵に依頼することになった。若山は現在の徳島市人宇佐古村の出身で明治元年二月二十三日生。関西法律学校で学んだ後、同二十五年に日州日日新聞主筆をしていた兄淳蔵を頼って宮崎に転居、新聞記者になった。
 その後、三十四年に日州独立新聞主筆に招かれたが、当時は『宮崎県政評論』(月刊)を発行して健筆をふるっていた。
 延岡では、創作社社友で素封家である谷次郎に一切の世話を頼むことにした。牧水にとって最も関係の深い土地だから是が非でも成功しなければ面目が立だない。このため、上地の有志多数を発起人に並べてもらうよう細かな計画まで具体的に示して依頼していた。
 次郎は『牧水先生はかけがえのない方だから』を口癖にしていたほど牧水を尊敬していた。否応はない。佐藤和七郎、小田彦太郎らを発起人にする段取りで計画を進めることにした。
 快諾の返事の末尾に『揮毫の旅ては随分酒をめしあがったようですが、だいじなお体だからご節酒下さるよう』と付け加えている。
 これには牧水も恐縮して
  『−酒の御苦言、冷汗三斗の態です。然し今度は自分の身体の方でよう過さぬ程度になっています故大丈夫と思います(中略)。何はともあれ御手紙を拝見して非常に嬉しさを感じました。単に会のことでなく心から御厚情を感じたのだとおもいます。早くお目にかかりたく思います』
 四月二十一日、沼津から礼状を出している。
 五月十一日に谷家を訪れたのはその打ち合わせのためで、その頃、歌壇の選者をしていた大分新聞社の後援も取り付けた。
 一方の宮崎は、牧水が若山甲蔵あてに手紙を出したものの、他に知人が少ないせいもあって結局、今回の旅行に合わせて頒布会を開くには至らなかった。
 朝鮮ては社友や知人らが周到な開催計画を立てていてくれる。だが、宮崎の分も合わせて成功を、と考えると気が安まらない。

   
つづき 第86週の掲載予定日・・・平成21年7月19日(日)

鶴まふ旅路
(2p目/3pの内)





挿画 児玉悦夫
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