第 83 週 平成21年6月28日(日)〜平成21年7月4日(土) 

第84週の掲載予定日・・・平成21年7月5日(日)

詩歌時代
(1p目/6pの内)





 挿画 児玉悦夫

  大正十五年は新雑誌『詩歌時代』の創刊準備でスタートした。『詩歌時代』は牧水が『創作』発刊以前から構想を温めていた文芸総合誌で、『創作』が創刊十五年を経過して安定したことを基礎に更に発展を目ざす計画だ。
 前年の『創作』三月号巻末の『創作社便』の中でも『家が出来、半折会が済んだならば、もう一つ大きな十五周年記念事業を起すつもりでいます。これは主として創作社なるものをもう少し広く大きく世間的に社会的に押し出すための企てなのだが、詳細はその時に発表します』と予告していた。
 これは早稲田大学の卒業前後、『文学を一生の仕事とする』ことを決意した時からの牧水の゛夢゛であった。
 この年は例年の元日の温泉行きをやめて新居に閉じこもって準備にあたった。十日には大悟法を伴って上京、創作社友や知人らに会って新雑誌発行の計画を打ち明け協力を求めた。彼らのだれもが予想以上に好意的だった。
 それに勢いを得て雑誌の体裁、内容、発行部数、宣伝方法など苦手な数宇まで並べながら細目のプランを練った。その相談相手は大悟法であった。
 牧水は大悟法に向かってこう言っていた。
  『大変な仕事だが、やる気になれば必ずやれる。心配はない。プランだけは自分が作るからとにかく一緒にやろうよ』。
  『利雄さん、僕はね。世間では飲んだくれのズボラな男と思っているようだが、やろうと思ったことは必ずやってのける男なんだ』。
 雑誌の内容については牧水は長年の経験と文壇に顔があるから心配はなかった。ただ、資金面で思案した。収支を計算したところ、詩、短歌、俳句の選者料や依頼原稿の謝礼、発行経費等を計算すると、当初二三子部印刷の予定だったのが五千部は出さなければ賄えないことがわかった。
 しかし、それだけの購読者を得るためには多大な広告費がいる。それがまた資金を圧迫することになる。頭をひねったあげく考えついたのが、牧水が選を頼まれている全国からの新聞、雑誌の投稿者の利用だった。
 大悟法らにその整理をさせたところ三万三千人の府県別名簿が出来た。その名簿を頼りにダイレクトメールで購読を勧誘することにした。それと創作社友を総動員すればなんとかゆけそうだ。牧水はそう踏んでいた。
 それと乏しい資金を補うために三月号くらいまでの購読料の前納金が欲しい。その目玉としてまず創刊号では懸賞金付き投稿歌壇を設けた。一等百円一人、二等二十五円二人、三等十円三人、四等五円五人、五等二円十人、透逸一円百人の当時の常識を吹き飛ばす大盤振舞の大懸賞で人気をあふることにした。

   『詩歌時代』は五月創刊を目途で進めることにした。その前景気をあふる意図もあって四月三、四日に沼津で創作社歌会を開いた。
 全国からの参加者約六十人を完成間もない 『創作社』本拠である自宅に迎えて牧水は感無量であった。一日目は狩野川べりの臨川館に集合、午前中は牧水、大悟法ら内輪の者の講演、午後は歌会で、夕方全員て千本浜に出て名代の松林の中を抜けて創作社に着いた。夜は臨川館て宴会になった。
 二日目は田子の浦で地曳網をひく予定だったが雨で中止、臨川館で歌会と懇親会を開いた。予期通りの盛会になった。
 その間に雑誌の刊行準備は滞りなく進み、四月二十七日には全部の製本を終った。牧水が文学者としての生命を燃焼し尽す覚悟で計画した総合文芸誌『詩歌時代』がようやく陽の目を見たわけである。
 菊判百五十六郷、特価六十銭。五千部を印刷した。このうち約千部を東京支局を通じて図書会社に収め、あとは全国の購読申込者あて直送した。その分が二十七日だけで三千百三十四冊になっている。
 当時、東京から出される文芸誌でも直接購読者三千人という雑誌はなかった。沼津から出して三千部というのは奇跡的数宇だった。だが、牧水としては不満足だった。
 採算面から直接購読者五、六千人が必要であった。でなければ製作費、広告代、懸賞金の支出をおぎなえない。
  『一握千金を夢みてやった『詩歌時代』がものの見事に越中褌となり、この分ではまた近々赤モウセンかついでの旅かせぎに出かけねばならぬも知れず、笑う勇気もありませぬ。然しこれは七分三分のカネアイで、第三号までの瀬を押し切ればとにかく続けてゆけます。いまそうすべく百方配慮中です。おとなしくしていればいいのに、といってそれですまされぬわけもあり、どうしていいか実はわかりません』。中村柊花への手紙だ。
 赤モウセンかついで、は揮毫行脚のことだ。目算外れからまたぞろ旅でかせがねばなるまいかと案じている。
 しかし、雑誌の内容は画期的なものだった。当時の全文壇の大家中堅が綺羅星の如く名を連らねて筆をとっている。
 萩原朔太郎、窪田空穂、富田砕花、室生犀星、堀口大学、佐藤惣之助、高村光太郎、河井酔名、白鳥省吾、干家元麿、荻原井泉水、村上鬼城、河東碧梧桐、古泉干樫、吉井勇、土岐善麿、北原白秋、前田夕暮、金子薫園、百田宗洽、大木篤夫、川路柳虹、野口雨情、浜田広介、それに牧水。まさに壮観だ。
 それに全国から鉄道便で届いた投稿の中から選ばれた秀作を満載していた。
詩歌時代
(2p目/6pの内)




 挿画  児玉悦夫
詩歌時代
(3p目/6pの内)




挿画 児玉悦夫

  『詩歌時代』創刊号に寄せられた評判はよかった。だが、収支の方はその逆に予想外の赤字になった。
 発刊準備のための新聞広告費七百円などの事前経費二千五百円を除いて創刊号だけで九百六十五円の欠損になった。一冊六十銭の雑誌だから赤字額は大きい。そのため合計五百円ほどの賞金と散文の原稿料などは初めの計画通りに支払ったが、散文以外の詩歌などの稿料は沼津名産のアジの干物を送ってかんべんしてもらった。
 それも浜どれのアジを開いて作った若山家の自家製で、喜志子や子供たちが干場を襲うカラスや群がるハエを追っ払うのに総動員される始末であった。
 このように新雑誌発行は経営的に大きく思惑が外れたが、さりとて今更中止するわけにはいかない。前途に不安は感じても『三号まで出せればどうにかなるものだ』と、根拠もないのに強気をよそって二、三号の準備を進めた。
 第二号は五月下旬に刷り終った。創刊号の執筆陣に新たに柳田国男、相馬御風、武者小路実篤、飯田蛇笏、生田春月らも加わる豪華な内容で初号にまさる好評を得た。
 七月に出た第三号はこのほかに蒲原有明、芥川竜之肋、尾崎喜八、中西悟堂、横瀬夜雨も加わっている。
 これ程の顔ぶれがそろったのは、牧水の文壇における地位と人柄、それに雑誌の企画が秀れていたことの証肌てある。
 その意味からは牧水の『世に問う』願望は号を追って達成される傾向を見せていたのだが、半面、赤字は発行を重ねるたびに累積されていった。
 そのほかに建築費の未払い分もある。五月二十日に土肥温泉の大工西川百之肋に百五十円を送ったがまだ残りがかなりある。山崎斌や長谷川銀作らに資金難の苦衷を訴える手紙を出している。
 それでも早稲田時代からの畏友北原白秋あての六月七日付けの手祗ては肩ひじを張っている。白秋は大正七年二月から住んでいた小田原の住居を引き払い東京谷中に移転していた。
 その手紙では『創刊号から三号まで千円に近い欠損で青くなったが、四号五号からは経費を引き締めてやっていく。考えてみると下らぬことに手をつけた様なものだが、やらねばならなかったからのことで、今となってもやはり始めてよかったと考えている。骨の折れかたが予期と達うだけです』と述べている。
 収支の事を考えると一日中、何も手につかぬ日もある。だが、やり通さねばおかぬ意地で自らを支えはげましていた。手伝う大悟法も同じ心労で食も進まぬ状態だった。

  『詩歌時代』の編集と、牧水が持ちかける経営上の相談で大悟法は目も落ちくぼむほど疲れ切っていた。見かねた牧水がしきりに辞退する彼を伊豆地方に気散じの旅に出してやった。六月五日朝のことだった。
 大悟法が『元気が出てきました』と出発の朝からするとずっと明るい顔で帰ってきたのが七日夕。その翌日の午後に沼津在住の社友長倉宣一が訪れた。
  『先生、実は今度、御厨銀行が伊豆銀行と合併することになりまして−。銀行の方では残るように言っているんですが、まあ色々考えるところもあって私は辞任することになりました。つきましては、土地代の件ですが、これは重役に事情を話して伊豆銀行に引き継いでもらうことになりましたのでこれまで通りでお願いします』。
 長倉は年齢は若いが上地の素封家で御厨銀行に勤めていた。その関係で牧水の金融相談を引き受けていて、上地の購入費、家屋の建築費、雑誌発行経費を同行から借り、揮毫行脚で得た金で毎月払い込んでいくことにしているのだ。
 合併で勤めをやめることになったため今後のことで話しにきたものだった。
 牧水にとってこの事も痛手だった。これまでの借入金の返済はともかく、新雑誌の発行に伴う経費の融資相談には、長倉が銀行にいるのといないので随分事情が違ってくる。
『詩歌時代』の先行きが案じられるおりだけに胸の底が冷える思いで聞いた。
 六月二十一日から牧水は旅に出た。この年は雑誌発行のため新年早々に用件をかかえて上京しただけで旅らしい旅は今回が初めてだった。
 早朝に沼津を出発して正午の船で館山寺に渡り夕方気賀町に行って創作社友宅に一泊、翌日はその社友を伴って奥山半僧坊に詣でて陣座、古川の両峠を越えて新城町の金沢修二宅に泊った。
 翌日は牧水一人鳳来寺麓の門谷村小松屋に泊った。ここで仏法僧の啼く声を心ゆくまで聴き、川合に回って二十五日夜沼津に帰った。
 いつもの旅と変わりはなかったが、ふと夜半に目覚めて『詩歌時代』に思いをめぐらすとキリキリ胸が痛んだ。この調子でいけば毎月かなりの赤字が出る。その上、いつになったら黒字になるか見通しが立だない。
 続刊か廃刊か−。三号が出たばかりだが前途を考えれば、この際はっきりけじめをつけなければならなかった。
 七月五日、気重し、『詩歌時代』の心配よりか、肩のこり中々とけず。八日、廃刊すべきか否かにつき大に頭を悩ます。折も折、東京の売上金来る。かれこれ差引き一百円也。

   
つづき 第84週の掲載予定日・・・平成21年7月5日(日)

詩歌時代
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