第 80 週 平成21年6月7日(日)〜平成21年6月13日(土) 

第81週の掲載予定日・・・平成21年6月14日(日)

ふるさとびとよ
(3p目/7pの内)





 挿画 児玉悦夫

  『ふるさとの尾鈴の山の』
 牧水の唇から定評の美声がはじめ低音でしだいに高く流れ出た。歌集『みなかみ』巻頭の『ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り』の名調である。
 満座が静まり返った。だが、『尾鈴の山の』まできて朗々たる歌声がぴたりと止んだ。そして、その声をのんだまま牧水は座ってしまった。
 このあと、誰がどうせがんでも『悲しさよ』と続くはずの牧水の朗詠を耳にすることができなかった。
 マキが船山旅館で思い起こした十一年前の苦悩の頃を牧水は彼なりの感慨でしのんだものである。
 歓迎会では有志のだれかれが『故郷に錦を飾られて』と讃辞を口にした。そう言われればそう言えなくもなかろう。だから牧水も母を招待してもらった。
 だが、父はどうか。自分への期待もむなしいまま一家苦悩の時代に世を去っている。その十三回忌を数日後に営むのである。
 酒をふくみつつ微笑を絶やさずにいる牧水の両眼に涙があふれてきた。気丈なマキが瞼をおさえたのはそのときであった。
 翌四日は野々崎の小高い山の頂上で野宴を張った。母にねだって五目ずしをこしらえてもらい杉本、古川、本渡らを誘ってきた。マキは『オレはもう年だから』と残った。
  『タン々。この山にはね。子供の頃おばあしゃんに連れられてよく来たもんだよ。ワラビ、ゼンマイを採ったり、コサン竹をかいだり。そして弁当はいつもこの五目ずしだったよ』。
 立蔵譲りの艶々したひょうたんに人れてきた酒を飲みながら旅人に父の幼き日の思い出を語ってきかせた。西南の空には尾鈴の山がかすんで見えた。
  『けふは珍しく世間離れのした一飲を催している。野々崎の野のてっぺんで昔馴染のお地蔵の前で尾鈴の霞を眺め乍らだ』。
 旅人、杉本らとその場で寄せ書して沼津の喜志子に送ってやった。
 五日は杉本らを送りがてらに牧水と旅人はマキ、姉シヅ、姪きぬを伴って宮崎の青島に遊んだ。亜熱帯樹が茂るこの島にも亡父をしのぶ思い出がある。
 明治四十年夏、早稲田の学生だった牧水は中国路を経て陸路帰省したその足で当時都井 (串間市)に出張診療中の父をたずねた。その途次、青島を初めて訪れたものだ。
 島を覆う檳ろう樹の濃き緑に変わりはない。鬼の洗濯岩と呼ばれる奇岩も昔のままである。
 変化したものは何か。祖母の手を引く旅人の後姿を追いつつ牧水はふとそう思った。

  鹿児島の杉本らと青島に一泊して別れたあと牧水ら若山家の家族は都農の河野佐太郎家に寄った。佐太郎が商用で大阪方面に出張していて坪谷には顔を出していない。それで寄ったもので二泊した。
 河野夫婦も牧水らを待っていた。牧水が沼津永住の考えならこの際、母、姉シヅの身の振り方、坪谷の家をどうするかなど決めておこうというわけだ。
 牧水は、亡父の十三回忌を営むことだけを頭において帰って来だのだが、不在であっても若山家の当主である。けじめはちゃんとつけておかねばならない。これまでの借財の清算を一気に迫られたような成行だ。
 都農の二晩はほとんどそのための親族会議で牧水はひどく疲れてしまった。坪谷に帰って十日に喜志子あてに出した手紙では少々弱音をはいてあまえている。
  『母、姉、家の処置など、大体都農できめて来た。そして多分来春、母をば都農の兄が連れて沼津にやって来ることになるであろう。
 随分、永い、而して複雑な旅てあった。のんきに考えて出て来たので、ひどく面食らってしまった。(中略)速く帰って、お前のふところにゆっくりと眠り度い。いま、その事のみ考えている。みいちゃんたちにも無沙汰してすまない。よろしくおわびしといてちょうだい。旅人兄さんも随分と皆に逢いたがって
いる。とりあえず右まで   牧水 』
 十一日夕に河野佐太郎・スエ、今西吉郎・トモの姉夫婦をはじめ親族が集まり翌十二日に法要が営まれた。法要の費用一切はマキが 『繁から預っている金でさせてもらうから』と、改まった□調で皆に告げた。
 牧水は前月の二十六日、林温泉の翠嵐楼から喜志子に、坪谷あてに電報為賛て百円送っておくよう手紙を出していた。当時、牧水は新聞雑誌の選歌料や原稿料などの収入で随分経済は豊かになっていた。
 だが、当時の百円とは少ない金額ではない。だから『−説明は省略、但しこれだけはお前の部分から小生が借りたものとして確実に返済する事を誓っておく』と、その手紙の中で律気にことわっている。
 電報為替は三十日に届いた。牧水はそのままマキに渡した。彼女は仏壇に供えて長いこと手を合わせていた。この百円で母と姉三人が身内や親族たちにどれほど肩身を広くしたものか。牧水にはそれが彼女らの表情から汲みとれた。しかし、この事情を前もって喜志子に理解させるには手紙では無理だった。
 法要のあとすぐにも沼津に帰る予定だったが、そう簡単に運ばなかった。来春を待たずにマキを沼津に連れて行きたい。そのメドがなかなか立たないからだった。
ふるさとびとよ
(4p目/7pの内)




 挿画  児玉悦夫
ふるさとびとよ
(5p目/7pの内)




挿画 児玉悦夫

  父立蔵の十三回忌法要がすんだあとも連日村のだれかが訪れて酒宴が続いた。那須九市のほか越智渓水、矢野団治、九市の長男一瑳ら若い者たちで一瑳を除いては酒豪ぞろい。坪谷の日用品雑貨商伊勢田の銘酒『豪傑』を飲み千してしまい村の評判になった。
 また一瑳が富高から絹本を取り寄せて牧水に揮毫を頼んだところ、『君のはお父さんから頼まれて書いておいたよ』と言って半折を取り出してきた。みると、

 老ひゆきてかへらぬものを父母の老ひゆく姿見守れよ子よ

 とある。当時、九市と一瑳の親子の仲がしっくりいっていなかった。若い一瑳が父親の言うことに何かと反発するところがあった。それで九市が、息子が日ごろ尊敬する牧水に一言注意してもらいたくて相談したところこの歌を書いたものだった。
 もらった一瑳は有難く押しいただいたものの歌の内容が余りおもしろくなかった。しかし、その後、自分が年齢を重ねるに従ってこの歌の慈味がわかるようになった−と後年語っていた。生家裏の歌碑の原本になった『ふるさとの尾鈴の』と共にこの半折を那須家の家宝としていた。
 また『繁坊、繁坊』と牧水をかわいがってくれた隣家の矢野寅吉に『矢野寅吉おぢやんに贈る歌 おとなりのしげ坊』と詞書さして
次の歌をしたためた短冊を贈ってもいる。

 おとなりの寅おぢやんに物申す永く永く生きてお酒飲みませうよ

 こうして滞在を一日伸ばしに伸ばしているうちに旅人がマキを口説き落として一緒に沼津に伴うことになった。それに二番目の姉トモの子供今西恵も一緒に連れて行くことになり、十六日朝出発になった。
 この朝、姉や親類の見送り人だちと一緒に馬車に乗る間際になって旧友の矢野伊作と富山豊吉があたふたとやってきた。そしてかかえてきたケヤキの一枚板を出して言う。
  『繁さん、坪谷神社に歌を奉納してくれんの。ケヤキの板に書いてもらおうと思うて持ってきたっちゃが」。
  『いやあ、突然に言われても困る。神社に奉納するような歌がすぐに生まれるわけでもないし、折角じゃがこらえてくれんの』。
  『またち言うてん、そうそう機会もないことだし、そう言わずに書いてくれんの』。
 押し問答のあげくとうとう筆をとる破目になってしまった。
  『久し振に故郷に帰り来れば旧友矢野伊作、富山豊吉の両君この板を持参して氏神に奉る歌書けといふすなはち氏子の一人 牧水』

 うぶすなのわが氏神よとこしへに村のしづめとおはすこの神

 牧水父子と母マキ、姉二人、甥、それに渓水、団治、一瑳らが貸切馬車で坪谷を出たが、出発直前に無理にかかされた坪谷神社への奉納の歌がどうにも気になってしかたがない。
  『気分が乗らないのに書いてしまったがあの歌はよくない。今度帰ったおりに書き直すから削り取って決して神社にはあげないようにしてくれ』。
 渓水らに繰り返し頼んでいたが、結局はそのまま奉納されたし、牧水も書き改める機会がなかった。
 途中、山陰の駐車場て待っていた元坪谷小学校長の木島頼久と馬車の窓越しにビールを飲みかわし、富高では坪谷出身の富山音吉方に『音あんちゃんに会って行こう』と寄って酒を馳走になり、乗船場の上々呂の亀屋旅館に着いたのは夕暮れ近くになっていた。
 翌日の朝、土々呂港から出る船で神戸に向かう予定だった。牧水は延岡中学校時代に上々呂港から船で別府港に行っている。当時のことを思い出して
  『あの時にね、一生に一度でいいから一等船室に乗ってみたいもんだと思った。明日はその一等船室に乗せてもらえるんだよ』
 同行の若者たちに話しながらここでも酒が遅くまで続いた。
 ところが、その晩に入港するはずの汽船が濃霧のため入港できず、出発が明後日に延期になった。十七日が一日浮くことになる。
 それで寄らずに帰るつもりだった延岡の台雲寺と谷自路方に電話して明日会うことにした。
 翌十七日の午前五時に谷自路と義兄の今西吉郎が駆けつけ、マキ一人を残してみんなで城山に登った。城山の桜はとうに散っていたが、牧水にとっては思い出の多い所だ。鐘楼の傍にむしろを敷いて野宴になった。牧水にとっては実に二十年ぶりの城山である。眼下に広がる町並みと東海からはるか門川にかけての日向灘を眺めて感慨にふけった。
 茶店で葉書を求めて渓水、団洽、自路、旅人と喜志子あてに寄せ書きした。
  『二十年ぶりでお城山に登り、古へ、ストライキを謀議せしことを懐古す、城春にして草青みたりの感あり  牧水』
 このあと高等科、中学時代の下宿先佐久間清久方をたすね『平おじゃん』に会って谷家で夕食をすませ夜の列車で上々呂に帰った。
 十八日は午前四時発の汽船で別府港経由で神戸に向かった。列車で別府まで行くつもりだったが旅人の希望で海路をとることにした。
 神戸には二十日着、三の宮と大阪に泊って沼津には二十三日に帰りついた。
 三月八日に沼津を出て以来、ほぼ九州を半周する四十七日間の長旅であった。

   
つづき 第81週の掲載予定日・・・平成21年6月14日(日)

ふるさとびとよ
(6p目/7pの内)





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