第 79 週 平成21年5月31日(日)〜平成21年6月6日(土) 

第80週の掲載予定日・・・平成21年6月7日(日)

九州の旅
(4p目/5pの内)





 挿画 児玉悦夫

 追悼会翌日の十七日は終日を長崎見物にあてた。夜は骨休めの小宴になった。
 長崎を去る十八日は、長崎支社友四、五人が大村駅まで同車、ここで下車して大村藩城跡近の小料理屋に上って別盃をくんだ。それで予定より二列車遅れてしまった。
 牧水はそれでよかったが、従兄の若山峻一には迷惑をかけた。大牟田駅に午後四時ころに着くと知らせてあった。彼は駅まで出迎えたが牧水の姿はない。次々に待ってようやく従弟と甥の姿を見たのは八時半になっていた。人のよい彼はそれでもぐちひとつ言うでなくにこにこして迎えてくれた。
 峻一は当時、土地の新聞社に勤めていた。牧水より十歳近く上だから五十の坂に手がかかる年配になっていた。
 家では義姉がご馳走を用意していた。長崎の中華料理が胃にもたれて牧水だけでなく食べ盛りの旅人まで折角の料理に手がつけられない。あげくには梅干を所望してお茶づけですませる始末で夫婦をがっかりさせた。
 十九日は新聞社を休んだ峻一と二人朝から酒を飲んだ。従兄といっても二人とも一人息子だ。兄弟同様の仲であった。こうして二人朝から盃をくみかわしていると、同じように酒好きで会うと必ず酒になった父立蔵、叔父純曽がしのばれてならなかった。
 盃を口に、悲しみのためでない温い涙が頬を伝うのを覚える二人であった。
 峻一宅に社友らが次々とたずねて来て二十四日夜まで大牟田滞在、船小屋温泉、大川町、福島町、上妻村の各拘て遊んだ。
 その間、時折り新聞社に連絡するだけで従兄は牧水親子に付ききりだった。『選挙が近くあるんでねえ』と、仕事に気づかうこともあったが、それも酒が回れば忘れてしまった。
 ついつい大牟田滞在が予定より長びき、二十五日朝ようやく車中の人になった。峻一はさすがに疲労していて駅まで見送ってくれたのは義姉と土地の創作社友だけだった。
 牧水も気ははっているが、疲れは同じだ。熊本、鹿児島と足を止める当初の予定を変更、人吉在の林温泉翠嵐楼に一泊、そのまま宮崎に直行することにした。
 翠嵐楼は、人吉温泉の中心街よりやや下流にあった。急流で名高い球磨川の川岸に建つ温泉宿は浴室が広くそれに静かだった。
 宿の二階から椿と百日紅の小さな林が眺められた。
 二十六日は宮崎泊。二十七日は都農町の河野佐太郎宅を素通りにして坪谷に帰った。
 富高から人力車二台を連らねた。東郷村境の切り通しを越えると冠獄が眼前にあった。又江野を通り、坪谷川ぞいの道を走ると尾鈴山が見えてきた。牧水の胸が高嗚った。

 岩崎鼻の大曲りを曲り切ると坪谷だ。そのとっつきにかつての若山医院かある。大正二年五月十五日、半ばあきらめたあげくの母マキの承諾を得て上京して以来の帰郷である。
 歌友石川啄木の『石をもて追はるるごとく』とは言わないまでも、村の人々の冷笑の眼をさけてこの岩崎鼻を曲がって坪谷川を下り富高に向かったものである。
 母マキはその後、東京巣鴨の家に迎えている。手紙の往復もある。案ずることはないが、村人たちの反応はどうだろうか。少なからぬおびえが牧水の胸にあった。
 亡き父立蔵とマキとの縁結びになった八重桜の老樹が門脇に枝を広げる家の前に人力車の梶棒が置かれた。すると家から姪きぬが、続いて足が不自由な姉シヅが姿を見せた。荷物をきぬに預けて家に入ると、マキが顔中に笑みをたたえて迎えてくれた。
 旅人をうながして仏壇の前に親子して座った。十三回忌を迎えた立蔵の写真がかかげてある。いつもの温顔が待っていてくれた。
 囲炉裏端にくつろぐとまるで時間を計ってでもいたように郵便局長の那須九市、青年会長をしている牧水と小学校時代の同級生日高与吉、同じく村会議員の寺原らがやってきた。
  『おマキおばさん。迎えに行こうと思っちょったらもういんできなさったげなが』。
 まずマキに声をかけて
  『繁さん、よう帰って来なさったなあ』。
 幼なじみでありながらいくらか距離をおいた挨拶をする。牧水が気をつかって 『どうも、ご無沙汰ばかりで、おふくろたちがえらい世話になりよるちゅうこつで−』。
 さあ、どうぞどうぞと座敷に招じ入れた。
 次々に近所の人たちが顔を出し、鶏をしめ、野菜を集めて酒宴の用意が始まった。
 牧水を慕って黒木伝松と一緒に上京、いまは帰省している矢野団治がやってきたのは翌晩だった。久方ぶりに師に会える喜びから一杯景気をつけて駆けつけたらしい。
  『先生!団治です』
 座敷に上るなり踊り出し、ついには台所にぶっ倒れたまま寝込むありさまだった。
 牧水は三月八日に沼津駅を出発してこのかた毎日三升平均は飲んできている。それでなお余裕しゃくしゃく?だ。
  『−タン々々(旅人の愛称)ひそかに讃ずらく゛みなお父さんより弱いね〃だって』 沼津の大悟法あての手紙にそう書いている。
 来客の応待だけでも大変な騒ぎなのに坪谷出身の国会議員矢野力治の留守宅から『今夕ぜひ拙宅で夕食を』と、わざわざ次男が使いにやってきた。
 四月三日には村をあげての若山牧水先生歓迎会を坪谷の船山旅館で開くと案内があった。
九州の旅
(5p目/5pの内)




 挿画  児玉悦夫
ふるさとびとよ
(1p目/7pの内)




挿画 児玉悦夫

 二十七日夕から連日連夜の酒宴が続いている。親類、縁者、友人、知人と訪れる客の多くは変わるがあるじの牧水は変わらない。
 牧水の酒量を承知しきっているマキだが、ついに案じはしめた。
  『そんげ飲んでいいのけえ、おめえは』。
 あきれ顔の老母にこたえて
  『十年分の酒じゃが。よろし、よろし』。
 牧水の言葉がもつれている。
 四月三日は午後三時から船山旅館で歓迎会が催された。牧水、旅人の親子と母マキが招かれて二階の広間の床の間を背に座った。
 先日、この会を企画して案内状を持ってきた坪谷郵便局長の那須九市に言った。
  『折角のご招待、身に過ぎたことと思いますが出席させていただきます。ついてひとつお願いがあるのですが−。九市さんはご承知の通り私が今日どうにか世に知られるようになりましたのは、自分の暮らしの苦労をおいて上京を許してくれた母のおかげです』。
  『厚かましいようですが、私共々出席させていただければ老い先短い母に対するせめてもの孝行の真似事にもなろうかと思います』。
 牧水は、律気ないつもの彼にかえって正座していた。そして、親友九市に言葉を改めて頭をさげた。
 牧水が明治四十五年七月、チチキトクの電報に驚いて急拠帰郷してから大正二年五月の上京の日まで、若山家で果てしなく繰り返された葛藤の始終を知っている九市である。そして当時、坪谷て牧水の真意をただ一人理解していた彼である。
  『繁さん、いいどこじゃねえが。そりゃあ、オレどんの手落ちじゃった。是非共おマキおばさんに出てもらわにゃならん。村長に相談するまでのことはない。この場でこっちの方からお願いします』。
 それで三人そろって出席になったものだ。
 歓迎会には村内有志五十人ほどが顔をそろえた。この年、大正十三年一月に就任したばかりの第十二代村長奈須熊吉が挨拶した。
  『―若山牧水先生は、ご列席の諸君がひとしくご承知の通り、わが国を代表する大歌人であり、東郷村が世に誇る方であります』
 鼻下のひげが自慢の奈須村長が知る限りの美辞を駆使して牧水をたたえた。村会議員ら有志の顔付きも極めて神妙であった。
 牧水は今度の九州の旅ても各地で創作社社友らの熱烈な歓迎を受けている。感極まって社友同士が相抱いて慟哭する情景さえ見てきている。
 今日の席の雰囲気はそれらと全く異質のものだった。出席者中幾人が牧水の文学と業績を解しているか。それは心もとない。しかし、それを超えた血の温もりがあった。

  牧水が言葉少なに謝辞を述べて祝宴に人った。有志たちが次々に立って来て牧水に盃をさし、傍にちんまりと座っている母マキにも酒を勧めた。
  『おマキおばさん、あんたの苦労のかいがあったちゅうもんじゃのう。さすがは、若山家の繁さんだ』。
 感に耐えたふうを装う者もいた。
  『ほんの形だけで』。
 マキは有志たちの盃を捧げるようにしていちいち受けていた。わずかな酒を□にしながら彼女は、牧水が早稲田大学に進学した当時を思い起こしていた。
 その頃の若山家の実情は、村のだれの眼にも斜陽の家としか映らなかった。それなのに息子を東京の大学に出す。しかも、三代目のはずが医学でなしに文学とやらを勉強するちゅう話じゃげな。だれ一人
  『さすが若山家。立派なもんよのう』。
 とほめる者はいなかった。『都農の佐太郎さんが反対するげなが。無理もねえこつよの』陰口する者がほとんどだった。
 その陰口が頂点に達したのは、立蔵の死の前後のことである。それは明らかに牧水の身内の難渋を考えない身勝手さに対する強い非難の声であった。
 大学進学当時は『大学を出さえすりゃ、百円取りは間違いないとじゃかり』と言い、卒業後は『繁は必ず成功してくれるが』と語ってきたマキである。身内の間では牧水を取り付く島もないほどになじる一方で、村人には言葉を設けてかばい続けてきた。
 いま、長いく期待が報われたのだ。こみあげる喜びが顔に出るのをとどめようがない。気丈なマキの顔に慈味があふれていた。
  『遠方からお弟子さんも見えていることなので、ここらへんで−』。
 発起人代表の九市の機転で酒宴がこの村にしては早目にお開きになった。牧水は発起人ら数人を伴ってわが家に帰った。
 此処にも牧水が手紙で呼び寄せた鹿児島の社友杉本平吉と本渡祐秋、都城の古川徳太、広瀬の田の岡初子や村の文学好きの若者たちが待ち構えていて内輪の宴が始まった。
 船山旅館では緊張ぎみだった牧水もこのー座では気兼ねがない。上機嫌で自分も盃を重ね社友たちにも酒を強いていた。
  『よろし、よろし、すべていいのなりだ。おっかさん』。
 そのうち杉本が立ち上がって皆に言った。
  『諸君、こんなよい日に先生の朗詠を聞かずに何の喜びぞ。是非お願いしよう』。
  『そうだ、そうだ。ひとつ願います』。
  一同の拍手に応じて牧水が立った。右手を腰にあてた得意のポーズを作った。

   
つづき 第80週の掲載予定日・・・平成21年6月7日(日)

ふるさとびとよ
(2p目/7pの内)





挿画 児玉悦夫
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