第 81 週 平成21年6月14日(日)〜平成21年6月20日(土) 

第82週の掲載予定日・・・平成21年6月21日(日)

ふるさとびとよ
(7p目/7pの内)





 挿画 児玉悦夫

 牧水は母マキの沼津滞在中精いっぱいの歓待を心掛けた。しかし映画や芝居見物に誘ったり、うまい物を食べに料理屋に行こうと言っても昔気質の彼女は首をたてに振らない。四人の孫たちに囲まれての生活を静かに楽しんでいるだけだった。
 ただ、温泉には行ってもいい、と言う。どこに何日案内しようか考えているうちに思わぬことからその機会が訪れた。
 小学三年生の長女みさきが、ある朝、ちょっとしたことからすねて学校を休んでしまった。神経質なところがある彼女は時折りかんしゃくを起こすことがあった。だから家で仇名を『小ビス』(小さなヒステリ)と呼ばれていた。この朝もそれだった。
 しくしく泣いている娘をみて牧水は、このまま学校を休むんならこの子と二女の真木子も一緒に母を温泉に連れて行こうと思った。
 それで大急ぎで仕度をして家を出た。五月九日の午後である。まず行きつけの長岡温泉に行き橋本屋に一泊した。マキも喜んで夕食までに二度も浴室に下りて行った。
 夕食では母子二人で酒を飲んだ。女中を遠慮させて牧水が自分で爛をつけた酒をマキも一合近く飲んで色白の細面を染めている。
  『おっかさん、弱くなったねえ。昔は゛坪谷の五升樽〃ち言われたお人が』
 牧水がからかうのに『いやもうきけた、きけた』と目を細めていた。
 翌日は古奈温泉に行き、牧水と子供らは出来たばかりの゛千人風呂〃と呼ぶ露天風呂につかった。そこからさらに船原温泉に足をのばして同夜は船原館に一泊した。
 十一日はそこから約一時間ほどの山越えの道を歩いて古奈温泉に行き東府屋に泊った。船原館を出るとき主人が『山道はお年寄りにはちょっと無理かも−』と言ったのを聞きとがめてマキが笑って言った。
  『いいんにゃ、山道ならまだこの伜には負けませんよ』。
 その通りの達者な足取りだった。峠近くでは牧水だちより遅れたと思ったら、黙って息子の目の前に片手をさし出した。見ると一握りのワラビを摘んでいた。
 雲ひとつない上天気でさすがに汗ばんだ。しかし若葉の森を抜けてくる風が快かったし、道の傍に残る山つつじの真紅の花が目を楽しませてくれた。それに紺青の空にくっきり白くそびえる富士の秀蜂がよかった。
 昼も夜も『繁、お前まあこんなに取り寄せてどうして食べ切るつもりかえ』と、マキがなじるほどの料理と飲み物を注文した。
 翌十二日、ゆっくりして沼津に帰ったが、マキはこの息子と二人の幼い孫との小旅行に満足しきっていた。牧水も同じ思いだった。

 母マキは沼津にーカ月余り滞在してまた草深い坪谷に帰って行った。牧水夫妻や孫たちが一日でも滞在を延ばすよう諸々の気づかいをするのに感謝しながらも、老いた彼女にとって一番気が安まるのは住みなれた美々津の川のみなかみであった。
 ただ、滞在中に牧水との間でひとつの取り決めができた。来年春には永住の覚悟で息子の家にやって来る。あとの坪谷の家は牧水の考えで処分する−ということだった。
 牧水としては早稲田大学を卒業して以来いつも心の隅にわだかまっていた懸案がこれで一応解決のめどがついた。母を連れ出してきた最大の収獲だと思った。
 五月には牧水の初めての童謡集『小さな鴬』が弘文館から発行された。十八篇の童謡を収めた挿画入りの本で、『少年少女叢書』のーつとして出版されたものだ。
 また七月初めには、前年秋の大震災で刊行間際に焼失した『みなかみ紀行』がマウンテン書房から出版された。
 六月に身延山久遠寺、七月に長岡温泉に二三泊の旅をしたが、牧水は当時煩瑣な問題をかかえていた。
 九州旅行から帰ってみると、その留守の間に家主から都合が出来たので早急に出ていただきたい、と申し入れがあっていた。広い家を随分と安い家賃で借してくれていた家主なので苦情は言えない。すぐに手配したが、格好の借家が見つからなかった。
 一方、永住の家を建てる資金を作るため計画した半折短冊揮毫頒布会の方も一向に準備が進まなかった。その気疲れをまぎらすために酒を飲み、その酒でまた体調をくずすことが多かった。
 六月初めに市内千本浜に新築中の小さな家かあるのを見つけて交渉、八月初めにまだ畳も敷き終わっていない家に移ることがてきた。
 そうこうするうちに初の頒布会が地元の沼津市で開かれることになった。『創作』の印刷所耕文社と早稲田大学の地元出身者が応援してくれたが、旗あげだから成功させねばならない。牧水が陣頭指揮して準備を進めた。
 開催日は九月二十七日から三日間。場所は千本浜道の東方寺。発起人、賛助者に五十三人の地元有志を並べた趣意書と二色刷りのビラを作って市内に配った。
 頒布料は画箋紙半折一枚十円から尺二絹本五枚一組六十円爽まで九通りの組合わせと価格にした。
 結果は、発起人、賛助者の尽力でまず成功で、三日間で約三千円の売り上げ高を計上できた。
 この勢いで十一月に東京で開く計画を立て、十月に小田原の北原白秋をたずねた。
揮毫行脚
(1p目/7pの内)




 挿画  児玉悦夫
揮毫行脚
(2p目/7pの内)




挿画 児玉悦夫

 北原白秋宅を訪れたのは十月十日、頒布会の会場を紹介してもらうためだった。
 十一月八日に東京・上野公園韻松寺で開かれた「東京付近創作社々友大会」に出席したあと、十五、十六日に東京の駿河台下クラブで牧水半折展覧会と頒布会を催した。会場は白秋の口ききだった。
 ところが、牧水が折悪しく健康を害していて出席できなかった。そのことと、まだ震災後の立ち直りが十分でない時期だったため不振に終わった。
 このため第二回目を同月二十八、九日の両日間、銀座裏の村田画房で催した。このときは、牧水、喜志子も上京して知己の間を駆け回ったためある程度の成果を収めることができた。
 頒布会で得た金はそっくり銀行に預金することにした。牧水の思惑がはずれて住家建築の費用一切を頒布会の売り上げで賄わなければなくなっていた。このため、頒布会の開催を積極的に進める一方でその資金の備蓄に慎重にならざるを得なかった。
 牧水としては、建築費用の一部に坪谷の家を処分した金を充てる考えだった。その話をマキが滞在中に決めておいたのだが、六月下旬に来た坪谷の那須九市からの手紙では事情が一変している。
 九市からの手紙では、あの家を姪のきぬにやって欲しいとある。実は家庭内の事情から家の名儀をきぬにしていたことも関係があるようだ。
 牧水は早速、家を新築する牡画があり、その費用の一部に坪谷の家の売却費を充てる心づもりであることなどを折り返し言ってやった。かなり厳しい文面であった。
 ところが、今度は母マキからの手紙が届いた。それによると、沼津ではあのような話になったが帰って考えてみるとやはり坪谷て暮らすことの方が自分にとっては幸せだ。
 それに足が不自由な姉シヅのことも気がかりで一緒に住んでいてやりたい。ついては、自分の余生を見てもらうことを条件に孫のきぬに家をやって欲しい。お前の都合もあろうが、年寄りのわがままを許して欲しい。
 こう書いてあった。牧水としては母の頼みを断わるわけにはいかない。
  『数日前、母より来書、母の意見がよく解りましたので小生方にても万事母の心に任することに致し、きぬ方にあの家を譲ることを承諾致しました。私の心持は要するに母を中心としての話で、母が斯うしてほしいということならばそれに従うほかありません』。
 七月十二日、九市あてにこう言ってやった。いよいよ頒布会開催のために自ら身を乗り出すほかに資金調達の方途はなかった。

 半折短冊頒布会を開くための揮毫行脚が本格的になったのは大正十四年からだった。
 一月十六日から二十二日まで大阪の淀屋橋の美術店で開いたのを皮切りに、喜志子同伴で顔を出した。その間、十八日には中之島の中央公会堂で関西創作社社友大会を開き、川田順、中村憲吉ら社外講師のほか、牧水も『人と歌の一生』と題して講演した。
 大阪のあと神戸の歌会、京都観光と、関西旅行は初めての喜志子にサービスも兼ねて宿泊を重ね沼津に帰ったのは二十七日夜だった。
 牧水は前年暮れ、八月に移ったばかりの新築の家からまた近くの借家に転居していた。そのためとりわけ住家の建築を急ぐ気持だったところ、二月初旬に上地約五百坪を買い求めることができた。
 場所は千本松原のー隅で秀麗富士を雄大な借景に松原を庭園に見立てられる絶好の地。牧水が幾度となく訪れて立って見、しゃがんでは確かめたうえで売買交渉を土地の社友の長倉汀峰に頼み、坪二十円の言い値を十六円に負けさせて買った。
 それも長倉が自費で全部の土地を買い取り、半折会でできた金の分ずつ牧水名儀で登録することにした。
 ともかく土地は確保できた。直ぐにも家屋建築にかかりたい。東京の建築技師村井武と土肥の大工西川某に来てもらって具体的な打ち合わせも行った。
 そして四月一日、社友ら数人も招いて地鎮祭を行い槌音が白砂青松の千本浜にひびくことになった。
  一方、半折会は二月に岡崎で開いたあと、四月中旬から五月初句にかけて半折会開催とその打ち合わせのため信州の各地を回っている。疲れはするが、足を運ぶたびにその分だけ大願成就の日が近づくわけだから気をふるい立たせて歩いた。
 六月は喜志子を伴って三日早朝沼津駅を出発して二十九日夕方帰り着くまで半折会と打ち合わせの旅が続いた。その間、旅人を頭に四人の子供らは沼津で留守居だった。
 この旅で回ったのは、岐阜県大井町、長野市、戸倉温泉、松代町、小諸、星野温泉、浅間温泉、名古屋の各地。半折会の合い間に講演、歌会、新聞雑誌の選歌とあるのだから神経も身体も疲労する。
 それをまぎらすのは酒であった。旅館のー室で揮毫するときには喜志子に墨をすらせ、絹本、画箋紙を広げさせておいて浴衣の裾をからげた。コップ酒で気力をつけては
  『あやしき姿をばいたします』
 と苦笑しつつ筆を走らすのであった。
 七月は沼津にいて各地との半折会の打ち合わせに忙殺された。

   
つづき 第82週の掲載予定日・・・平成21年6月21日(日)

揮毫行脚
(3p目/7pの内)





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