第 78 週 平成21年5月24日(日)〜平成21年5月30日(土) 

第79週の掲載予定日・・・平成21年5月31日(日)

八 ヶ 岳
(7p目/7pの内)





 挿画 児玉悦夫

 牧水は旅から帰ると留守中に山積していた仕事に没頭して寸暇もない毎日が続いた。しかし、『創作』の発行も順調だし、社友も月を追って増えている。特にその中から秀れた新人たちが出てきていることが心強かった。
 体調は万全とは言えないが、気力は充実していた。選歌、批評、執筆に対する意気込みにもこれまでにないものがあった。
 その意欲が『大阪時事新報』と『名古屋新聞』の文芸評に対する反論にも表われた。
 十二月十日付けの大阪時事新聞の学芸欄日曜付録に『短歌壇の合同或る』の見出しで、東京の北原白秋、木下利玄、前田夕暮、吉植庄亮、橋田東声、名古屋の尾山篤二郎、石井直三郎、大阪の川田順らによって樹海社が結成され、雑誌『樹海』が発行される、と言う記事が掲載された。
 それはいいのだが、その中で、歌壇の主流をなすのは『樹海』と島木赤彦の『アララギ』、窪田空穂の『国歌』(来年一月発刊予定)で、佐々木信綱の『心の花』、牧水の『創作』、尾上柴舟の『水甕』等は傍流に過ぎぬ−とあった。
 牧水は直ちに抗議して投稿、『樹海社の面々は勿論、主流視せられた他のー、二社を一束にしたものでもいい、優にそれ等に対抗してゆく実質をわが創作社は持っているつもりである』と大見得を切っている。
 名古屋新聞は同月十一日付けの浅野梨郷の寄稿『本年歌壇の回顧』で、各雑誌を撫で斬りにしたあげく『〃創作゛はその千篇一律の歌を陳列して徒らに誌面の多寡を見せつけんとし・・』とこきおろしていた。
 これにも痛烈に反撃した。『−若し創作の歌を千篇一律とするならば一体他の雑誌の歌を浅野君は何と見るのであろうか。よく千変万化の色彩と活動を持つものであろうか、と。そして思わず僕は笑い出した』。
 この反論はいずれも両紙に扱われた。もって歌壇に対する牧水の満々たる自信と闘志がうかがえよう。
 この年には『創作』に『子供の歌』の欄を設けた。牧水は大正八年秋に島崎藤村、有島生馬の監修で『金の船』として発行され、十一年夏から『金の星』に変わった児童雑誌の子供の詩歌の選をしていた。それで子供の作品に魅力を感じて『子供の歌』欄を新設したものである。
 創作のこの欄は『赤い鳥』『金の星』に対抗しうるまでには至らなかったが、牧水自身は『金の星』に多くの童謡を発表している。それは晩年まで続いた。
 雑誌発行は前途有望の状態だったが、半面、三月号の創作誌土て発表した半折短冊会は大震災の影響もあって芳しくなかった。

 ありし日はひとごととのみ思ひゐし四十の歳にいつか来にけり

 大正十三年、四十歳の初春を迎えた牧水は元日から土肥温泉に行きいつもの土肥館の二階に泊った。暮れから沼津に来ていた菊池知勇、長谷川銀作、桐子夫妻、村松道弥、神部孝、それに大悟法利雄、金沢修二、蔦子らも加わる多勢になった。
 六日には牧水を残して皆は帰ったが、その後も喜志子や子供たちが数日来ていたりしていて結局、牧水は二月二日まで滞在した。
 土肥館にいる間に前年の暮れ、名古屋新聞に『本年歌壇の回顧』文中、創作を酷評した浅野梨郷に牧水が反論したのに対し、さらに同紙上に浅野が『千篇一律の解』を書き、それにまた牧水が『浅野君に答ふ』を投稿して再反撃した。
 また、かつて交友が深かった窪田空穂ら文芸雑誌『国歌』の同人ら七人が同誌の創刊号 (新年号)で、鳳来寺山で詠んだ歌『峡のうす雲』十首を取り上げ『若山牧水氏の歌を評す』と題してかなり酷評した。これにも『合評を読む』の一文を書いて厳しく抗議するなど意気天を衝く勢いであった。
 土肥館での生活も、ひとりになってからは仕事と読書で静かに過ごしたが、社友たちが滞在中は『朝持って来た雑煮を午後六時に喰うというレコードまで』(高久耿太への手紙) 
 作る痛飲で随分賑やかな正月になった。
 同行した大悟法が後年、『牧水の一生のうち最も賑やかなお正月といってもよかった』と回顧しているほどだ。
 三月には牧水にとって生涯忘れ得ない旅に出かけた。社友中村三郎の三周忌が郷里の長崎で同月十六日に営まれることになっている。その追悼会に出たあと東郷村坪谷で父立蔵の十三回忌を営むための旅てある。八日朝、長男旅人ひとりを伴って沼津駅から汽車に乗った。
 父立蔵は、牧水が帰省中の大正元年(明治四十五年)十一月十四日に行年六十八歳で死去している。長男旅人は翌二年四月二十四日、喜志子が牧水の留守中身を寄せていた実家長野県広丘村で出生している。その子がいま十二歳である。
 牧水には長男旅人に祖父の墓に参らせ、久しぶりの祖母に逢わせてやりたい思いのほかに思惑があった。幾度言っても牧水一家と一緒に暮そうとせぬかたくな母マキを可愛い孫の力で口説き落とそうという計略だった。
 午後一時に熱田駅に下車した。初めて長途の旅をする長男に途中の風物を存分に見聞させたい。そのために今度の旅行では夜行列車を利用しないことにした。
 幾つもの目的を持った九州旅行であった。
九州の旅
(1p目/5pの内)




 挿画  児玉悦夫
九州の旅
(2p目/5pの内)




挿画 児玉悦夫

  牧水にとっても九州の土を踏むのは大正二年五月十五日、親類中の強い反対の中を母マキの諒解をもらって上京して以来のことだ。二月にこの計画を立ててからはまさに帰心矢の如し。幾夜か故郷の夢を見た。
 三月一日には同郷出身で東京在住の黒木伝松と那須琢磨にその事を言ってやった。
  『坪谷にいんでくる。たよりはないか。ことに琢磨君はどうです。あったら遠慮なく言って下さい。どうせ兄さんにも逢いますから。多分こちら七日出発、坪谷着は二十日ころ。団治君はあちらにいるのか知ら。
 帰るということが恐しい様な悲しい様な羞しい様な気がしてならぬ。そしてその癖どこやらうれしい。とにかく今度は年寄を引っ張って来る。その餌として旅人を連れてゆく。
 十何年振りであちらの山桜が見られるとおもうと最もうれしい。冠獄をもようく見て来よう。又江野下から船にも乗って美々津まで下る。船間の磯にも一時間でも寝て来ましょう。おお神さま。どうか私に酒を飲ませずに下さい。  三月一日、   牧水 』。
 牧水の心はすでにはるか海を越えて日向の地にあった。そして十数年ぶりに故郷に帰る心の動揺を同郷の後輩たちにいささかの飾り気もなしに伝えている。
 手紙の中の団冶は同郷の矢野団洽。創作社友で黒木伝松に続いて上京したがほどなく帰郷していた。又江野は東郷村の中心地。ここの船戸から耳川を美々津港まで下る高瀬舟が出ていた。             、
 冠獄は又江野の対岸、耳川の水際からほとんど垂直にそそり立つ山で異様な姿が富高の町からも望まれた。村の象徴でもあった。
 牧水のこの村の山桜へのあこがれはもはや説明の要はあるまい。
 熱田駅で降りて熱田神宮前の創作社友鷲野飛燕宅を訪れた。酒になるのを怖れて今夜の宿に鷲野宅を選んだのに、彼は珍客の相伴役に酒豪の中林晴太郎、前田源を待機させて酒宴の用意をしていた。
 飲ませないで下さい、と神にさえ祈りつつ飲むのが牧水の酒である。結局は同家だけでは足りず夜中に二、三軒酒亭をはしごする始末になった。旅人はその間、鷲野の二男と名古屋見物と映画に行っていた。
 翌日は名古屋駅から乗車した。前田は一の宮まで送るはずが太阪まで同車してしまった。
 大阪でも社友四人が待ち受けていて酒。社友宅から道頓堀まで飲み歩き午前二時ようやく寝についた。
 十日は須磨の社友野元純彦宅に深夜泊。十一日は厳島の亀福本店に泊った。ここは親子だけ。さすがにビールー本と銚子二本だけにして早々に床についた。

 十二日は山口泊だった。山口駅まで未娘を連れた平賀春郊が迎えに出ていた。彼は数日後には松江高校教授として転任することになっている。このため家内が取り込んでいた。牧水は気の毒に思ったが、それも初めのうちだけ。結局は夜半過ぎまで盃を離さなかった。いつ会っても心なごむ語らいだった。
 翌日は下関まで出迎えていた創作社戸畑支社の三苫守西ら四人に八代から出てきた由解実も一緒に風が冷たい関門海峡を渡り、戸畑駅に着いた。プラ。トホームには十数人の若い社友が待っていた。
 戸畑支社の毛利雨一楼宅に落ち着いた。若い社友とその夫人連中が歓迎の夕食会の用意に立ち働いていた。
 夕食は酒になり、牧水が三升ずつ二度、六升を買って若い人たちにふるまった。翌朝早く目ざめてみると、夫人たちを除いて十五、六人の社友のほとんどが広間に雑魚寝していた。朝六時ごろまで話していたと言う。
 昼は浜に出て野外の歌会になった。会のあとは近くの三苫宅まで歩いてまた酒宴。牧水は宴半ばで旅人を連れて別間で床についたが、広間のざわめきは果てしなく続いていた。翌朝、みると前夜同様、足の踏み場もないくらい社友らの寝姿があった。
 十五日は長崎に向かった。長崎駅には午後五時十一分着。長崎支社の高島儀太郎宅を宿に用意してあった。彼の心尽しのしっぽく料理がととのっていて早速酒宴。就寝したのは午前二時を過ぎていた。
 十六日はいよいよ社友中村三郎の追悼会当日である。長崎の市街地と港を見おろす山の中腹の墓に詣でた。
 故人の母と兄が佐賀に移り住んでいるが、故人在世中からの貧窮のため追悼会には残念ながら出席できないと言う。それでも小さな墓石の周辺がきれいに清掃してあった。

 三郎よ汝がふるさとに来てみれば汝が墓にはや苔ぞ生ひたる

 こんどの旅で牧水がはじめてノートに書きとめた歌であった。
 午後は寺院で追悼会と追悼歌会が催された。参会者約五十人。中村の自画像をかかげた霊前にぬかずき、故人が生前何かと世話になったと言う住職の低い読経を聞いているうちに牧水の瞼にいつ知らず涙がにじんだ。
 歌会に次いで市内出島の中華料理屋で懇親会が催された。本格的な中華料理になじまない牧水がまごついていると、土地の社友がそばにつききりで世話してくれた。
 美味と珍しさで、いつもは酒が主になる牧水だが、この懇親会では料理が主、酒が客になった。
 旅人の箸もよく動いているようだった。

   
つづき 第79週の掲載予定日・・・平成21年5月31日(日)

九州の旅
(3p目/5pの内)





挿画 児玉悦夫
  「牧水の風景」トップへ