第 58 週 平成21年1月4日(日)〜平成21年1月10日(土) 

第59週の掲載予定日・・・平成21年1月11日(日)

北下浦の宿
(4p目/7pの内)





 挿画 児玉悦夫
 大正四年の十二月十日、喜志子は『川端』で長女を生んだ。介添えは内務省の産婆資格を持った河田輝だった。彼女は、千葉県二の宮の娘で牧水と同年生まれ。上京して派出婦会で働きながら苦学して資格を取った。
 東京で開業していたが、北下浦村を『模範村』にしたい計画の六代村長岩崎新の招きでこの村にきたものだ。
 この河田が田辺医師同様に金銭に恬淡な性格で、貧しい家庭からは謝礼を受け取らない。それどころか、自分や娘の着物をほぐしておむつを作って持って行って与える人だった。
 田辺医師と河田産婆。牧水一家がこの二人の好意でどれほど助かったか、想像を超えるものがあった。
 長女には『みさき』と命名した。第一子が生まれる前、牧水は信州にいた喜志子に『男ならば旅人、女ならばみさき』と命名するよう手紙で言ってやっている。迷うことなくその名を付けた。
 この年は貧しくともおだやかに暮れ、大正五年の新春を迎えた。家族は親子四人に産前から加勢にきている喜志子の妹桐子を入れて五人。にぎやかに屠蘇を祝った。
 三浦半島の春は早い。正月のざわめきがようやく去って世間がどうやら落ち着きを取り戻した。そう感じて周囲を見渡すと春の気配がもうそこここにあった。                                                    東南風(いなさ)吹き沖もとどろと鳴りし一夜に咲き傾きし白梅の花

   わが庭の竹の林の浅けれど降る雨見れば春は来にけり

 浅春の二月下旬、牧水は上京して二週間余り滞在した。前々から東北地方への旅をもくろんでいた。その旅費を工面するため出版社や雑誌社を回った。

   みちのくの雪見に行くと燃え上るこころ消しつつ銭つくるわれは

 旅費の工面がついたので三月十四日、初のみちのくをたずねて旅立った。仙台、塩釜、松島、盛岡、青森、北津軽、南津軽。さらに秋田、飯塚、福島と回って東京着。北下浦に帰ったのは五月一日。初夏の太陽が樹々の若葉に照り、家々には鯉のぼりの五色の吹き流しが海からの風に泳いでいた。
 その翌日には喜志子ら母子三人を桐子と一緒に信州に帰した。
 『随分わがままをさせてもらったから今度は僕が留守番をする。ゆっくり骨休めをしてくるといいよ』

   やと握るその手この手のいずれみな大きからぬなき青森人よ

 みちのくの長旅では多くの歌仲間と会い、名所をたずね、酒も飲んだ。ひとり十畳の間に寝ころんでその喜びを反芻した。
 牧水は北下浦村滞在中も多くの仕事をしている。前年の四月には傑作歌選『若山牧水』を抒情詩社、自選歌集『行入行歌』を植竹書院から出版した。
 七月には太田水穂が『潮音』を創刊。これは休刊した第二次『創作』の身代わりで、創作社友名簿がそっくり引き継がれた。牧水が歌と下浦の小品文を寄せたほか喜志子、山蘭、翠村、水明ら創作社の主要同人が歌を発表している。
 十月には第八歌集『砂丘』を博信望書店から出した。『三浦半島』と題する北下浦での詠草も含まれている。
 喜志子も同年十二月末、処女歌集『無花果』を潮音社から出した。序文を水穂、跋文を牧水が書いた。
 そして、みちのくの旅から帰った直後の六月初めには新潮社から散文集『旅とふるさと』が刊行された。早稲田時代からの小品、紀行文、それに旅行と故郷の歌二百余首をまとめたものだ。
 五月の初めに早稲田大学同窓の歌人福永挽歌が病妻と子供一人を連れて北下浦村に移ってきた。牧水が藤里らに頼んで近くに借家を見つけてやった。
 彼もまた赤貧洗う状態で、牧水があきれるほどであった。遊びに来て『これ、もらっていくよ』。炭箱から木炭を新聞紙に包んで持って帰ることもあった。
 『川端』の家の事情で、六月十日頃に転居した。突然のことで家探しに困ったが、牧水がいつも駄菓子を買いに行く主人が紹介してくれた。その家の娘が東京で看護婦をしていて、牧水の名声を知っていたため両親らを説いて座敷を貸してくれた。
 彼女は『若山先生』と呼んだ。『先生』と言われたのはこの村に来て初めてだった。
 八畳の間を居間、物置の二階を牧水の書斎にした。小柄な牧水の頭がつかえそうな天井の低い狭い部屋で歌稿をまとめ、六月末には第九歌集『朝の歌』を天弦堂書房から出した。
 北下浦での健康な生活が歌に反映したのであろう『砂丘』と違った生気が三十一文字にあふれていた。
 牧水は七月初めに上京した。一週間くらいのつもりで出て来たのが、十一月初めまでの長逗留になってしまった。仕事をするには北下浦にいたのでは何かと不便であった。
 本郷区天神町の下宿『富士屋』に腰を落ちつけて万葉集から徳川期までの古い歌の中から好きな歌を引き抜いてまとめ『わが愛誦歌』として出版する計画を立てて原稿にしていた。北下浦を引き払うにはまとまった金がいる。この本で収入を得る考えだった。
 水穂から『潮音』について相談もあった。
北下浦の宿
(5p目/7pの内)





 挿画  児玉悦夫
北下浦の宿
(6p目/7pの内)




挿画 児玉悦夫
  太田水穂の『潮音』は第二次『創作』の身代わりとして創刊されたものだ。当初は同誌に発表される歌も創作社同人の作品が中心になっていたが、号を迫うにつれて水穂門下の歌が重んじられるようになってきた。
 水穂選と言うことであれば当然のことであった。しかし、創作社同人にはそれが不満で、牧水選を求める声が高まっていた。
 水穂はその要求に妥協して牧水に『詠草』のうち三段組の分だけ選歌して欲しいと持ちかけた。
 三段組と言うのは初心者の投稿歌である。創作を主宰してきた牧水にその選者になってくれとは軽々しい。不愉快であった。
 そこで、彼は別の提案をした。
 『太田さん、実は仲間うち二、三十人で金を出し合って小さな雑誌を出す計画がある。『潮音』の基礎が固まらないうちは迷惑をかけるからと遠慮していたが、あなたの努力でもう大丈夫だ。このさい、私どもでその雑誌を出したいが、了承してもらえまいか』
 水穂は伏兵にでもあったような口調で牧水の言葉をさえぎった。
 『いや、若山君、そりゃあ困る。仲間うちから別の雑誌を出せば共倒れになることは自明だ。そうまで言うんだったら君が『潮音』を引き受けてくれ!』  話は意外な方向に転換して、二人の間でさまざまなやりとりになった。結局は、『潮音』は牧水が北下浦村に転地している期間、水穂が肩代わりするという考えで創刊したのだから、君が雑誌発行の気になったのなら元の持ち主に戻すのが当然だ。
 『−編集も経営も一切を君に任すから是非やってもらいたい』
 水穂の強引とも思える申し出に牧水も納得してようやく決着がついた。
 それが十一月一日の夜、その後、さらに話を煮つめて発行所は『創作社』、誌名は『潮音』の両者折衷案がまとまり、大正六年新年号から全面的に牧水の手に移ることになった。
 牧水はその準備のため七日に北下浦に帰った。ところが、その後、東京と北下浦で手紙で打ち合わせるうちに水穂の言い分が変わってきた。発行所も潮音杜にせよ、と言う。
 そのうえ、十二月号に載せるため牧水が書いた挨拶文を全部朱で消し、水穂が書き直して送り返してきた。
 牧水もさすがに憤慨したが、喜志子になだめられて二十六日に上京、改めて二人で話し合ったが、水穂の考えが先日と大幅に変わっている。彼の周辺がそうさせるのだろうとは推察したものの牧水には不本意な内容だった。
 結局、合同の話は決裂し、『創作』を復活する−と言い切って牧水は座を立った。
  『潮音』をそのまま引き継ぐつもりが単独で『創作』を復活する破目になった。まず資金がない。難関が目の前に見えているが、水穂の前でいさざよく断言した以上、無理を承知で実行するはかはない。
 小石川区戸崎町の越前翠村の下宿を創作社事務所にして旧同人らに呼びかけて復活準備にかかった。以前の創作社社友名簿を水穂に渡してあるから連絡ひとつにも苦労した。
 十二月二十八日、一年十カ月余滞在した北下浦村を引き揚げ、小石川区金言町に家を借りて移った。
 年明け早々から社友募集、雑誌の広告取り、牧水の周辺は多忙を極めた。寒風に凍えながらライオン歯磨や三越に広告取りに行って玄関払いを食って帰った日もある。
 だが、その苦労が実って二月に第三次『創作』(第五巻第二号)が陽の目を見た。これまでは、第一次が東雲堂、第二次は水穂の監督下にあった。第三次から牧水自前の『創作』として復活された。
 心配した社友も二百五十人が集まった。復活号には牧水夫妻、山蘭、翠村、緑薫、挽歌ら新旧社友のほか、社外から柴舟、薫園、哀果らが寄稿、菊判で本文百ページ、表紙は中川一政筆になる堂々たる雑誌であった。
 水穂との悶着はあった。そのためにこれまでになく苦しい思いをした。しかし、第三次『創作』復活によって牧水のその後の人生が開けることになる。
 牧水はさらに一段、人間的に成長した。それには一家をあげて移住した北下浦での明け暮れが著しく影響している。復活号の編集後記に彼自身そのことに触れている。
 北下浦村(横須賀市) に以後の話がある。
 若山家の主治医田辺久衛氏は先に紹介した。彼の死後(昭和十年没)、子息秀久医師が十二年から父の跡を継いだ。秀久氏は歌に対する造詣が深く、父との縁もあって特に牧水研究に熱心だった。
 戦後、文学碑建立を計画、その主唱者となって二十六年一月に関係地域に『若山牧水歌碑建設趣旨書』を配付、協賛を求めた。
 その後、秀久氏が病床に伏したことからこの計画を横須賀観光協会が引き継ぎ、地元の企業などの援助を仰いで二十八年に建立、同年の文化の日に除幕した。設置場所は、『川端』の近くの汐風抜ける松林である。
 歌碑の歌は、初め『海越えて鋸山は−』など地元での詠草が候補に上ったが、結局、世評の高い『しら鳥は』になった。裏面に喜志子詠の次の歌が小さく刻まれ、記念すべき夫婦歌碑になっている。

    うちけぶり鋸山も浮び来と今日のみちしほふくらみ寄する

   
つづき 第59週の掲載予定日・・・平成21年1月11日(日)
北下浦の宿
(7p目/7pの内)




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