第 59 週 平成21年1月11日(日)〜平成21年1月17日(土) 

第60週の掲載予定日・・・平成21年1月18日(日)

巣 鴨 時 代
(1p目/5pの内)




 挿画 児玉悦夫
 資金の都合で期日に多少の遅れはあっても三、四月号とも『創作』は順調に発行された。愁眉を開く思いの牧水を狂喜させる珍客が金富町の家を訪れた。 四月十八日、母マキが姪きぬと共に上京してきた。幾度かの牧水の誘いの手紙に『暖くなったら行ってみようかと考えている』と返事がきていた。だが、寄る年波だ。果たして実現するだろうか、危ぶむ気持が強かった。
 それでも四月十日の平賀春郊、十五日の和田山蘭あての手紙に『数日中に郷里の母が出て来てくれるかもしれぬ』としたためていた。
  『−おっ母さんのことだ。ああ言うだけで出て来はしないよ』。
 喜志子や二人の子供らにもそう口では言ったものの心持ちしていた。
  『−孫娘(きぬ)に肋けられて東京駅に降り立った白髪の老婆を見た時、実に異様に私の胸は波立った。元来私は高等小学九歳の時からずっと他郷に出ていたので、以来二十三、四年の間、家族と親しむことがてきなかった。
 ことに東京に出て以来十二、三年間というもの、二回か三回しか帰っていない。いろいろな不自由から遠くにいても尽さるべきことも尽していないので、親に対していつも心苦しい思いのみしていた。父を失ってからは一層その感が深かった。
 朝晩の烏の吟声にすら常に心をびくつかせられていたので、今度思いがけなくその顔を見た時は、実に嬉しいとも悲しいともつかぬ烈しい感じが胸一杯にこみあげて来て、容易にものも言えなかった』
 その日の感動を創作五月号の編集後記に率直に書いている。
 七十一歳の母は思いのほか元気であった。来るとすぐから旅人とみさき、二人の孫の世話をしていっときもじっとしていることがなかった。
 気丈なマキが、何かと気づかう喜志子をやさしくいたわっていた。
  『喜志さん、繁がこんな飲んだくれで苦労ばっかりかけるこつじゃろうが、辛抱してくんねエよ。それでん、どうにか家族仲良く暮らしているのを見てわしも安心した。思い切って出てきたかいがあったよ』
 牧水はそんな母を見て、あらためて老父母に心労をかけどうして過した歳月の長さを思って心が痛んだ。
 上野の山にはそこここに散り残りのハ重桜があった。手を引かんばかりにして牧水が案内した。
  『−東京は花の多い所じゃのう』
 目を細めて息子を振り返った。
 牧水は死の直前まで上京を楽しみにしながら果たせなかった亡き父をしのんでいた。
 マキときぬはーカ月程滞在して帰って行った。このまま東京で同居するよう夫婦して勧めたが、首を縦に振らなかった。
 坪谷で想像していたより落ち着いた暮らしをしている。歌詠みというので警戒ぎみだった喜志子も気だてがよく、牧水に心から尽している。それを確かめればそれでよかった。
 坪谷には、足の不自由なシヅがいる。彼女には老いた母でも自分が必要だ。
  『−東京ち言うても汽車に乗りさえすりゃ座っていても連れてきてくれる。もう覚えたかりちょいちょい厄介になるが・・』
 牧水らを笑わせてマキは元気に帰って行った。東京駅では牧水の方があふれる涙をかくしようがなかった。
 この月の下旬に『わが愛誦歌』が東雲堂から出版された。古事記、万葉集、徳川期の歌人の中から七十人の歌を選んだ。まとまった金が欲しくて出したものだが、それでも原稿料として四、五十円が手に入っただけだった。
 五月初めに市外巣鴨町に転居した。天神山と呼ばれる丘の中腹の閑静な家だった。
 八月三日から十六日にかけて、秋田、酒田、新潟、長野、松本をたずねる旅に出かけた。十三日には広丘村の喜志子の実家を訪れた。
 結婚して六年。初めてでしかも突然の訪問に太田家の人々は驚いた。結婚当時は喜志子に家出をそそのかした。そう思って牧水を恨んだ人たちだった。
 だが、歳月がすべてを洗い流していた。それに牧水の人柄も理解されていた。この村に三晩泊まって東京に帰った。
 この旅の間に、牧水・喜志子共著の歌集『白梅集』が抒情詩社から出た。牧水の歌二百二十二首、喜志子の歌二百四十七首。結婚当初から二人の心の深い所ではぐくまれてきたものが、ようやく結実した。

   自  嘲

  妻子らを怖れつつおもふみづからのみすぼらしさは目も向けられず

  めづらしく妻をいとしく子をいとしくおもはるる日の昼顔の花

    酒

 なにものにか媚びてをらねばたへがたきさびしさ故に飲めるならじか

 酔ひぬればさめゆく時のさびしさに追はれ追はれてのめるならしか

 牧水が自序に述べているように、絶望的、自棄的な歌が多く収められている。大正五年、北下浦から一人上京していた当時の生活がしのばれる作である。
 『創作』は五月号まで順調だったが、六月号以降は薄っぺらなものになった。またも毎月が悪戦苦闘の連続になった。
 必死で続刊する。それに懸命だった。  
巣 鴨 時 代
(2p目/5pの内)





 挿画  児玉悦夫
巣 鴨 時 代
(3p目/5pの内)






挿画 児玉悦夫
 巣鴨の新居は郊外にあるため訪れる者も少なかった。小部屋ながら四部屋あったうえ菜園と花壇が作れる庭もついていた。
 その庭に野菜や草花の苗を植えて、早起きの牧水が家族がまだ床についているうちから水をやり、煙草をくゆらせてあたりを散歩するゆとりさえあった。街中の喧噪を逃れて静かな朝夕を楽しんでいた。
 だが、仕事の方は窮迫していた。『創作』七月号はついに休刊、八月号は僅か四十ページのものにしか出せなかった。
 瀬戸内海に浮かぶ愛媛県越智郡岩城村の岩城島の郵便局長三浦敏夫が、毎月々々の牧水の苦労を見かねて
  『−先生のお気持は私どもにもお察しできます。しかし、今のままでは先生のご健康の方が心配です。一時、雑誌発行の仕事を忘れてこの温暖な島にご家族ごー緒においでになりませんか。文化的なものは何一つない小さな島てすが、先生お気に入りの青い空と海は年中変わりございません。
 できる限りのお世話はさせていただきます。心おきなく先生ご自身のお仕事をしていただけませんか−』
 そう言ってきたのが、十月の初めであった。
 創作社の仕事も大切だろうが、それでは牧水の心身も類いまれな才能も磨り減らしてしまう。もっと自分をだいじにして欲しい−。三浦は率直にそう訴えている。
 牧水は彼の手紙を読みおわったあと、黙って喜志子に渡した。煙草をくわえて庭に降り立った彼の眼に涙があった。
 武蔵野の丘とはるかに遠い低い山々の上の空に思いがけず富士の姿があった。澄んだ秋空に秀麗そのものであった。
  『−雑誌をやめて島へ来ぬかという。ありがとう、実にありがとう。しかし、僕にはいまそうした自由がない。なるほど雑誌印刷になると苦労するが、とにかく平常はその雑誌で食っている形だから、あながちこれを排斥するわけにいかぬ。
 それに単に雑誌を出しているというのでなく歌作の面でも雑誌発行を有意義だと感じていることが二、三ある。で、小さいながらもこれを続けていきたいと思っている。
 この心持が変らぬ間、いやでも東京から離れられないと思う』。
 三浦の厚志に感謝しながらあくまで『創作』の仕事を続けていく考えを言ってやった。太田水穂への意地や同人らへの義理からではない。三浦自身が案じてくれる、彼自身の歌作りのためにも『創作』が、生命の糧となるーそう確信していた。
 喜志子は三浦の手紙について何も言わなかった。だが、思いは夫婦同じであった。 
  牧水は九月から十月にかけて過労から床についた。全身がぬけるようにけだるく医者の強い指示で八年ぶりに禁酒した。

   膳にならぶ飯も小鍋も松たけも可笑しきものか酒なしにして

   底なしの甕(もたい)に水をつぐごとくすべなきものか酒やめて居れば

 『罹病禁酒』。酒なしでは全く所在ない明け暮れを自嘲した歌である。
 十一月には健康も旧に復した。長雨があがって気持よく晴れた十二日の正午、思い立って埼玉県飯能町に行き旅館『港屋』に泊まった。一泊のつもりが秋の空に心を吸われたように入間川の渓谷をたどって秩父一帯を回り、三日間を過ごしてしまった。
 だが、この旅は物見遊山の気楽な旅ではなかった。『われ二十六歳歌をつくりて飯に代ふ世にもわびしきなりはひをする』。歳末を控えて若山家の経済は極度にきびしい。
 銭に代うるべき歌を得るための旅だった。
 幸いに気持よく数多くの歌が詠めた。巣鴨に帰るとすぐに博文館の『文章世界』の編集長加能作次郎に手紙を出した。
  『小生先日秩父地方を旅行し、歌を百六十首ほど作って来ました。その中から百首だけを選みこれを一緒に発表したいと思うのです。発表するだけなら自分の雑誌もありますが、稿料を得たく御迷惑でもあなたの方にお願いしたいと思うのです。稿料は十五円頂きたいと思うのです。少々御無理でもお引き受け下さいませんか』。
 加納は石川県出身で牧水と同年生。明治三十八年上京して苦学しながら四十年に早大予科に入学、四十四年に英文科を卒業している。牧水の同学の後輩である。
 そのよしみで歌稿を売り込んだものだ。翌年の『文章世界』新年号に『渓百首』と加して発表された。一首十五銭、合計十五円の稿料が若山家の年の瀬を肋けることになった。

    石越ゆる水のまろみを眺めつつこころかなしも秋の渓間に

    飲む湯にも焚火のけむり匂ひたる山家の冬の夕餉なりけり

    ちろちろと岩つたふ水に這ひあそぶ赤き蟹ゐて杉の山静か

 秋の秩父地方の山と渓谷の自然を詠んだ秀歌である。清澄な調べは、あわただしい毎日を送りながら、それがゆえに静けき心を求めてやまぬ牧水の気持が素直にあらわれている。
 この歌は後に刊行される歌集『渓谷集』の中心として収録される。
 加納は翌七年十月から読売新聞に連載した小説『世の中へ』で文壇に登場、昭和十六年八月急死するまで、短編小説家として揺るがぬ地位を保ち続けている。

   
つづき 第60週の掲載予定日・・・平成21年1月18日(日)
巣 鴨 時 代
(4p目/5pの内)






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