第 57 週 平成20年12月28日(日)〜平成21年1月3日(土) 

第58週の掲載予定日・・・平成21年1月4日(日)

「創作」復活
(3p目/3pの内)




 挿画 児玉悦夫
 翌大正三年は、家庭を持って初めての正月で牧水にとって記念すべき年明けになった。そのこともあって元日からの酒が二週間以上も続く始末になった。
 雑誌『創作』も継続して発行されている。今年こそ輝かしい将来へのスタートになる、そう思えた。昨年から計画していた創作誌友大会も、上野の桜が咲きそろった三月末に予定通り開催にこぎつけた。
 二十八日から三十一日までの四日間に及んだ大会のプログラムは思い切って豪華なものにした。長野、栃木、岩手、青森の各県からも誌友が続々と参加した。
 初日は正午から牛込区の清風亭で茶話会、夜は帝劇にかかっていた芸術座を見た。同月二十六日から三十一日までの公演で、島村抱月脚色、松井須磨子主演の『復活』が東都の人気をあつめていた。
 二日目は正午から抱月、相馬御風、太田水穂、中沢臨川の文芸講演と音楽演奏。夜は宴会。三日目は上野で開催中の大正博覧会など市内名所案内。閉会当日は午前中は市内見物、夜は太田水穂方でお別れ会を催した。
 四日あるいは五日間のふれあいで、牧水と参加の誌友たちとの関係は雑誌発行者と読者のワクを超えた同志的結合に発展した。
 四月には第七歌集『秋風の歌』が新声社から発行された。巻頭には旅人を詠んだ歌をおいた。

   我が赤児ひた泣きに泣く地もそらもしら雲となり光るくもり日

 「創作」の内容は号を迫って充実していた。牧水にも満々たる自信があった。だが、大きい出版社からの発行でないことから、売れ行きが内容に伴わなかった。七月号を出したころから抜本的な改革策をとらない限り続刊不能の状態に陥った。
 東京の同人や信州在住の同人、誌友らと相談した結果、八月号の代りに改革案を示した四ページの印刷物を配付して協力を求めた。
 改革案は、これまでの牧水の編集発行、そして購読者という関係から、牧水も誌友も同じ社友として『創作社』を組織し、その組織から雑誌を発行するという仕組みにするものであった。
 誌友大会での同志的結合を基礎におき、頼みにした発想だった。この新しい試みは誌友の共感を呼び、直ちに二百人の社友申し込みがあった。
 だが、その大半は誌代前納の既読者であった。収入増につながらなかった。結局は九、十月号を出しただけで『創作』は休刊に追い込まれてしまった。    十二月には喜志子が病に倒れた。子守、看病、炊事を一手に牧水は年の瀬を迎えた。
 大正四年。新春早々から喜志子が入院した。前年の十二月初めから腹痛を訴えていたのがこじれていっこうになおらない。特に十八、九日頃は高熱のため昏睡とうわ言が交互して続いた。往診の医師も『きょう明日がヤマですなあ』深刻な表情でくびをかしげる危険な状態に陥った。
 看病と子守り、炊事。それに歳末の金策までただ一人で家の内外をかけずり回っている牧水にはこたえた。
 心細くなって何度か信州の実家に電報を打って妹桐子にでも来てもらおうか、腰を浮かしてはとどまった。
 その後、幸いに小康を得ているが、初め原因がわからなかったのが、腸結核と診断された。医師が隔離治療が必要だと言う。
 どうにか入院費をつごうして年が改まるとすぐに小石川区雑司ケ谷の永楽病院の隔離病室に入院させた。
 付添婦を頼む余裕がないから牧水が旅人を連れて泊り込んで看病することになった。
 十二月三十日に小石川の越前翠村宅から彼と二人で本所の和田山蘭あてに出した葉書には強がりを書いていた。
 『どう考えてみても元旦に握りきんをしているのは本当ではない。イヤ、まったくだ。少し臭かろうが、思い切ってその手を出そうじゃないか。元日の朝っぱらから夜ふけまで大いにその手を振り合おうというのだ。君と僕とは招待で懐中無金でいいのだそうだ。僕はいまこの計画を聞いてすっかりいい気になってしまっている。病人も糞もあるものか、正月だ〈』
 実際は正月どころじゃない。数え三歳の旅人をあやしながら隔離室の窓から新春の町を眺めやる毎日はわびしい限りであった。
 だが、どこにいてもふれあいは生まれるものだ。永楽病院の勤務医の一人が短歌愛好者で牧水の名を知っていた。わざわざ病室をたずねてきてくれて何かと好意を示してくれた。
 病人と家族にとって親切な医師は神仏同様にありがたい。東雲堂の西村陽吉に葉書を出して歌集『別離』を送ってもらい、署名して歌好きの医学士に贈った。
 二月中旬、もう間もなく退院というころになってその医師が牧水にすすめた。
 『先生、失礼ですが奥さんは随分疲れていらっしゃる。それが病気の原因の一つになった、と言えなくもありません。どうでしょう。どこか静かな所に転地療養なさったら−』
 牧水も、退院はしてもいまの憔悴しきった喜志子に東京の下町の雑踏の中の生活を続けさせることは苛酷に思われた。
 彼自身にもその願望が前々からあった。転地を真剣に考えることにした。
 
北下浦の宿
(1p目/7pの内)




 挿画  児玉悦夫
北下浦の宿
(2p目/7pの内)





挿画 児玉悦夫
 喜志子の転地療養先に神奈川県三浦郡北下浦村長沢を選んだ。明治四十三年春から夏にかけて半年近く同地に住んでいた佐藤緑葉の紹介によるものだった。
 二月二十日頃に牧水が下見と借家の相談で訪れたうえで、三月中旬に親子三人で移住した。家は佐藤も住んでいた斉藤松蔵方で、わらぶきの農家の十畳と六畳の座敷二間を借りることにした。
 同家は、家の周囲を巻くように長沢川が流れているため、家号を『川端』と呼ばれた。川の両岸は竹薮が続き、その中に桜や椿の木があって季節の花を咲かせた。
 『川端』に行くには長沢川をまたぐ橋を渡るが、それは船底板一枚切りの橋だった。
 牧水は十畳の間を三人の居室、六畳の間を自分の仕事部屋にして机を据え、書籍をうず高く積んでいた。
 『川端』の家族は六人だったが、当主の松蔵、キクの夫婦と養子の勝蔵が横浜に別居して海運業を営んでいた。家には当主の母サワと長男文治郎、里子美和子の三人がいるだけだった。
 半農半漁の静かな村で療養には打ってつけの環境だった。それに何より心丈夫なことは近くに田辺久衛医師がいることだった。
 田辺医師は、明治十年二月、福島県若松市の生まれで、二十七年に上京して東京済生学舎(後の日本医科大学) に入って医学を学んだ。学友にかの野口英世博士がいた。
 茨城日赤病院勤務の後、三十五年に、当時無医村であった北下浦の村医として招かれて同村津久井に開院した。
 彼は、どんな遠方辺地からの往診依頼もいやがらず、貧しければ診察料も薬代もとらなかった。だから村民には『先生、先生』と敬われながらも家計は苦しかった。
 新来の牧水一家にはとりわけ親切だった。田辺は『若いが将来ある歌人』と牧水を見ていたし、信念を貫くために赤貧に甘んずる彼と、病身ながらぐちひとつ言わず一心に夫を助けようとする喜志子。年下の夫婦のしんしな態度にうたれていたためだ。
 赤貧とは言えば、ここに転地するにも療養費どころか、親子三人の食い扶持もない。そこで、西村陽吉や土岐哀果ら知名の歌人数人に色紙、短冊を書いてもらい、即売展覧会を開いてその代金を送ってもらうよう頼み込んで東京をたってきていた。
 田辺医師のほかに土地の名士である郡会議員の藤里堅誠が牧水に好意を寄せてくれた。藤里は村で大きい日用品店を開いていた。牧水はこの店で米塩と酒をツケで買えた。
 北下浦は喜志子の療養だけでなく若山一家の心機一転のための転地先であった。 

   海越えて鋸山はかすめども此処の長浜浪立ちやまず

 田辺医師とこの地方随一の実力者藤里郡議の原遇を得て北下浦の生活は日々安定したものになった。もともとこだわることのない牧水の性格から村の有志から漁師まで交際する人たちの輪が広がって行った。
 村の海に面した小高い丘に魚見のための番屋がある。漁に出ない日は漁師たちが酒徳利を持って集まった。気のおけない漁師仲間のささやかな酒宴が開かれたが、散歩の途中の牧水がこの座に招じ入れられることも多かった。

   友の僧いまだ若けれしみじみと梅の老木をいたわるあわれ

 南下浦に、鎌倉時代の武将で源頼朝の信任があつかった和田義盛の菩提寺で知られる浄土真宗来福寺があった。そこの若い副住職和田祐憲が、文学を愛し歌心もあったことから牧水に近づいてきた。
 翌五年の早春には同寺の観梅会に招待された。案内に立った祐憲が庭内の老梅の一本々々をいたわっているのを見て、この土地の人たちの心のぬくもりを感じたこともある。
 当時、北下浦には郵便局がなかった。原稿を新聞、雑誌に送る一方、東京からの為替を現金化するため毎月一、二回浦賀郵便局に通った。尻こすり坂と久比里坂の小さな峠を二つを越して約六`。往復は難義だったが、浦賀の町には北下浦にない楽しみがあった。
 東京風のてんぷらやトンカツを食べさせる小料理屋によく寄った。帰りにウイスキーや喜志子、旅人への土産を買って帰ることもあった。
 ある時は、風呂敷につつんで背負った土産物の中のウイスキーがちゃぽんちゃぽん、かすかな音を立てる。『帰ってから、帰ってから』と、自らなだめていたが、ついに誘惑に勝てず、尻こすり峠に腰をおろして飲み干してしまい、あげくには土産の品を道々落として帰った失敗もある。
 失敗と言えば、大正五年の正月二日、年始帰りにかなり酔って例の船底板一枚を渡しただけの橋を渡っていて足を滑べらし、冬には珍しい豪雨のために増水していた長沢川に転落、かなり流されたこともある。
 十数日後、藤里郡議の新築祝いに招かれて行ったところ、満座の有志たちが、牧水の椿事を知っていてヤンヤの拍手喝釆、大いに赤面した。このあと、ゲン直しにと差された三合入りの大盃を半ば照れかくしもあって二杯半、息もつかずに飲み干してまたまた満座の拍手を浴びたものだ。
 文学者ぶった所が全くない牧水は、北下浦人々のだれからも敬愛されていた。
   
つづき 第58週の掲載予定日・・・平成21年1月4日(日)
北下浦の宿
(3p目/7pの内)




挿画 児玉悦夫
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