第 47 週 平成20年10月19日(日)〜平成20年10月25日(土) 

第48週の掲載予定日・・・平成20年10月26日(日)

小 枝 子
(15p目/19pの内)




 挿画 児玉悦夫
  園田小枝子との愛の巣になるはずだった牛込区若松町の家を引き払った牧水は、早稲田鶴巻町の下宿屋八雲館に移った。
 八雲館は佐藤緑葉が学生当時から下宿していた。なんのことはない牧水と佐藤が人れかわりになった。しかし、牧水が新家庭を結ぶべき二部屋の寓ては佐藤新夫妻が愛の語らいをすることになった。
 親友同士である二人にとって余りにも皮肉な対比になった。
 三月十九日、安房海岸の北条で療養中の女流歌人石井貞子に手紙を出した。
  『−とうとうー切に最後を宣告して私は流浪の身となりました。 事業の失敗、身体の病気、女との永別、その他無職貧乏、あらゆる敗北者が具(そな)うるだけのいやなことをば残す所なく具えつけて、下宿屋の二階に横たわっています。 風耶てしょう。数日来から熱が強くって、夜も昼も多く氷のうと親しんでいます。 なお斯くて茫然と生きているのがむしろ不思議です』。
 石井貞子は、牧水より二歳上で、栃木県那須郡佐久山町の旧家の生まれ。宇都宮高女を卒業して窪田空穂を中心にした十日会に人った。秀れた文学的才能の持ち主で、若くして文芸雑誌に歌や小説を発表、十日会の閏秀歌人、作家の名を文壇で得ていた。
 後に、牧水とも親交があった早稲田大学英文科出身の三津木春影と結婚するが、当時は胸の病を養うため、女中を伴って気候温暖な安房海岸に転地していた。
 牧水も彼女の文名を知っていた。それに富田砕花の紹介もあって一月下句、根本に行く途中に彼女の療養先をたずねている。
 会って話したのは、彼女の身体を気づかう女中に遠慮して僅かな時間に過ぎなかった。
 だが、恋人小枝子とは全く異質の女性をそこに見た。知性と情感。その豊かさがあたりにたゆとう感じであった。
 牧水は貞子に強くひかれた。
 根本滞在中、その後東京に帰ってからもひどく感傷的な手紙を彼女に送っている。
 貞子も、牧水の転地先根本を一度訪れたことがあった。
 恋にはまだ至らぬまでも淡い心の交流が二人の間にあった。二月十一日、東京に帰る船中から出した貞子あての葉書に牧水の胸のうちをしのばせる歌数首を添えた。

   安房の国別れがたなや安房の国別れがたなやいざさらばさらば

   別れ来て船のいかりのくさりづな錆びしが上に腰かけて居り

 寒く辛く悲しさの限りを知らず候。 その石井貞子に悶々の想いを訴えたのだ。
  ― 女との永別。
 石井貞子あての手紙にはそう書いた。しかし、小枝子との激しい恋にこれで終止符が打たれたわけではない。
 遂に若松町の家に移って来なかった小枝子の裏切りには憤った。血が逆流するおもいもした。いや、今もそれに変わりはない。
 逃れゆく女にはこっちから縁を切る。崩れがちな自分の気持に区切りをつけるために根本の海岸にも行った。
 女との永別。それに嘘はない。
 その一方で、このまま彼女が彼を忘れ去るものとはどうしても思えない。

   いつまでを持ちなばありし日のごとく胸に泣き伏し詫ぶる子を見む

   詫びて来よ詫びて来よとぞむなしくも待つくるしさに男死ぬべき

 小核子が再びその美しい顔に恥じらいを見せてわが家を訪れるに違いない。むしろその日を期待し、信じる気持が強かった。
 ありていに言えば、小枝子との恋は救いようのない泥沼にのめりこんでいた。
 悶々の日々のうちにも季節は遅滞なく移って行く。四月を迎え上野の桜が人の波を招いていた。
 町に陽気がただようこの月の十八日の朝、牧水は下宿を出た。花見客も混じる雑踏にもまれながら彼の気は重かった。
 大学在学中猶予されていた徴兵検査を受けるため本郷聯隊区に出向くための外出だった。
 都会の若者は貧弱な体格の者たちが多い。万が一にも合格したら−。数日前からそればかりを案じていた。
 ところが、検査の結果は丙種。不合格になった。
  『天終にこの孱弱(せんじゃく)なる詩人に幸した。免れた、丙種。これを機として僕の新たなる日の曙けむことを諸共に祈ってくれ給え。お祝いの品を山ほど待つ』
 昨日会って、今日の憂うつをぐちったばかりの歌友で国学院大学生の尾崎久弥に、早速この喜びを葉書て知らせてやった。
 不都合な話のようだが、牧水の顔に明るみが見えたのはこの日ばかりであった。
 うっとおしい日は桜が散り若葉の季節になっても変わらなかった。
 ただかすかな曙光といえば『海の声』に続く第二歌集出版の話が進んでいることだった。
 牧水は、尾崎の勧めで名古屋の歌誌『八乙女』の同人になっていた。そこから第二歌集を出したいと考え、同人の鷲野飛燕に相談したところ快諾の返事があった。
 書名を『独り歌へる』と決めて『海の声』以後の作品を集めることにした。
 六月中旬からその編集にかかった。
小 枝 子
(16p目/19pの内)




 挿画  児玉悦夫
小 枝 子
(17p目/19pの内)



挿画 児玉悦夫
  牧水は、歌集の編集に没頭するため南多摩郡七生村百草山の茶店石坂方に移った。この店は簡易旅館も兼ねていた。
 閑静なところで学生時代から幾度か泊っている。一人仕事に専念するには絶好の環境であった。
 それに牧水にとって甘い思い出のある店でもあった。

   みじろがでわが手にねむれあめつちになにごともなし何の事なし

 小枝子と結ばれて間もないころ、彼女と百草園で遊んで一夜を過ごしたことがある。
 その店にーカ月ほど滞在、『独り歌へる』の編集をすませて東京に帰ってきた。その牧水を思いがけぬ朗報が待っていた。
 早稲田大学英文科の同期生で北斗会同人、『新声』の編集にも共にたずさわった安成貞雄がたずねてきた。
  『若山君、中央新聞の主幹兼編集局長をしている小野瀬不二人さんから記者を一人頼まれているんだよ。君なら筆は立つし、紹介しておいたんだがやってみないか−。新聞記者も結構おもしろいよ。月給はそう期待できないかもしれないけどね』
 安成も大学を出て当時『二六新報』の記者をしていた。彼は中学時代から本格的に俳句を学んできた男だが、色青白き文学青年とはタイプが違っていた。
 後年、酒、貧乏、浪吟の生活を送った一種の無頼派で『ひげの男』として著名になるが、若い頃から豪傑風。新聞記者にはうってつけの人物だった。
 新聞記者と聞いて牧水はちゅうちょした。万朝報や読売新聞の文芸記者とは投、寄稿を通して付き合いがあった。親しみもあった。
 だが、それはあくまで部外からの接触で、自分自身が記者として内部の者になりきるにはためらいがあった。
 新聞の評価は日露戦争当時の従軍記者の臨場感あふるる報道などで著しく高まっていた。しかし、それはあくまで紙面であって記者についてのそれではない。
 実態の認識とは別に記者に対するイメージは〃羽織ごろ〃の域を出ないでいた。
 と言って、他に就職の目あてはない。結局、
 『中央新聞』に入社することになった。四十二年七月二十日。暑いさなかを出社した。
 中央新聞は明治二十四年八月の創刊。もとは雑報や小説類に主力をおいた小新聞だったが、政治面にも力を注ぐようになり日露戦争の報道で人気をあふり、一万部以上を出す有力紙になっていた。
 牧水は社会部に入った。入社早々から『蛍狩雑感』(7月24日)など東京の夏の夜の情趣を伝える署名記事を書かされた。
 中央新聞社会部記者若山牧水の月給は二十五円てあった。
 牧水が早稲田大学入学の学資援助を懇願したさい河野佐太郎に手紙で伝えた『(大学)を卒業せし上は、少くとも月六十円内外の月給は得らるべく』と言った望みには半分も達しないが、定収入を得ることになった。
 入社初日、和服で行ったら社会部長から『背広で出社するよう』注意された。
 社命だからやむな〃大嫌い〃の洋服を月賦で買った。ネクタイを買う金がないのでノータイで行った。部長はため息をついただけだった。
 見かねたベテラン記者の田村江東がお古のネクタイを持ってきてくれた。結びようを知らないからもじもじしていたら、彼が親切に結んでくれた。
 靴は歌友の永代静雄のを借りて行った。大きすぎて急いで歩くとぬげそうだ。奇妙な歩き方をして同僚の失笑を買った。
 だが、新米記者ながら筆は達者だった。『若山生』『木酔生』の署名入りの記事が次々に出た。少なからず得意であった。
 八月十四日早朝、牧水は名古屋に着いた。名古屋には『独り歌へる』発刊の打ち合わせの用件かおる。それと十五日に当地の歌人大会が開かれるためたずねたものだ。
 ところが、十四、五日、関西地方はかなりの大地震に見舞われた。
 中心地は滋賀県で、家屋全壊四百十五戸、半壊九百十三戸、即死三十一人、重軽傷者七十人が出た。
 牧水は休暇をとって歌人大会に出ていたのだが、現地に近いということから本社から電報で取材を命じられた。
 十七日朝、新米記者『若山特派員』は直ちに震災地に急行した。同月十九、二十日に連載された『震後の江山』がその現地ルポで、もちろん署名入りだった。
 また歌壇の批評を牧水生、島崎藤村の新著 『新片町より』など新刊紹介は木酔生の署名で書いた。しかし−。
 純文学で身を立てる決意の牧水にとっていわゆる三面記事を取材するため東京中を駆け回る記者生活は意に添う毎日ではなかった。
 それに薄給のためその日暮らしがせいぜい。彼の出世を待ち焦がれる坪谷の両親に送金など思いもよらなかった。
 都農の河野家の姉スエは、婚家では夫らの目を気づかって書けなかった牧水あての手紙を坪谷の実家から寄越した。
 読まなくても察しがつくきつい叱責の文面であった。
 老父母のめんどうをどう見ていくつもりか−。手紙に涙の跡があった。

   
つづき 第48週の掲載予定日・・・平成20年10月26日(日)
小 枝 子
(18p目/19pの内)



挿画 児玉悦夫
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