第 48 週 平成20年10月26日(日)〜平成20年11月1日(土) 

第49週の掲載予定日・・・平成20年11月2日(日)

小 枝 子
(19p目/19pの内)




 挿画 児玉悦夫
   『−国に帰って月給とりになれとのことですけれど、国に帰ったところで私のする仕事はひとつもないではありませんか。あればいつでもかえります』
  『お言葉によりますと、いかにも私ひとりでこちらでぜいたくにくらしてでもいるように考えていらっしゃるようですけれど、昨年学校を出て以来いろいろ死ぬような目にも出逢って一日も早く身を立てようとあせったため仕事はみな失敗しますし、身体をばさんざんにぶちこわしてしまいましたし、ただ今ではもう実にみじめなくるしい朝夕を送っているのです』。
 九月二十九日。新聞社に入った後も相変わらず窮迫の生活をよぎなくされている現状を述べたうえ、近いうちに毎月いくらかずつ送金するようにしましょう。
 それがかなわないならば、一度故郷に帰って父母を連れて上京します−。
 長姉河野スエにはそう返事を出した。
 送金も両親を東京に呼び寄せることも、今のところ確かな目算があるわけではない。
 切端詰まったあげくの逃げでしかなかった。自分でもそのことはよくわかっているが、そうでも書いてやらねば故郷の肉親たちの怒りと嘆きをおさえようがなかった。
 翌十月二十六日、全国民は新聞の号外の鈴の音で平穏になれた耳を驚かされた。
 午前九時、ロシア蔵相と会談のためハルピン駅に到着した枢密院議長伊藤博文が韓国人の凶弾にたおれた。六十九歳だった。
 十一月四日、日比谷公團て国葬が営まれたが、三日前の一日、若山記者は横須賀港に向かった。
 軍艦『秋津洲』で無言の帰国をした伊藤博文の遺骸をむかえる現地取材にあたった。
  『−日極めて清和碧りに凪いだ遥かの海上に夫らしい煤煙を認めた時には皆言合わせた様に黙然と瞑目叩頭し、何れも暗涙に咽んでいた』
  『愈々秋津洲の碇を下すや風の無い静かな海や山に「哀の極」の哀譜が鳴り渡り港内数隻の軍艦の欄干にビッタリと水兵が立並んだ時、群衆は再び泣いた』
 美文詞の記事『霊柩を迎ふ、落葉雨の如き加納山』の末尾にも『一日、若山特派員(横須賀発)』の名があった。
 名文記者若山牧水の名がようやく高まりかけていたのに、中央新聞記者生活に終わりを告げることになった。
 主幹の小野瀬が大岡育三社長との意見の相違から退社した。小野瀬が入社させた牧水も他の十人ほどの社員と共にやめた。
 永居するつもりはなかったが、在社五ヵ月余、あっけない決別てあった。
  名古屋の『八少女』から出版予定の第二歌集『独り歌へる』の作業は順調に進み、中央新聞退社のころにちょうど校正刷りが送ってきていた。
 勤めがなくなったのをよいことにその方に精力を集中した。『海の声』の経験があるので、製本の細部にわたって『八少女』同人の鷲野飛燕に注文をつけてやった。
 その年の十二月も末になって思いがけない話が舞い込んだ。
 東雲堂書店の西村辰五郎(陽古)から、新雑誌を創刊したいが、その編集を引き受けてはもらえまいかと言う話であった。
 西村は牧水より七歳下。東京本所相生町の生まれで江原辰五郎と言った。
 高等小学校を出て日本橋の東雲堂の店員になったが、人物と仕事振りを見込まれて四十一年に店主西村寅次郎の養子に迎えられた。
 元来文芸好きだった彼は、文学専門の書店として立つことを目ざし、『文章世界』の投稿家を主にした雑誌『紅塵』を当時発行していた。
 しかし、彼自身、小径と号して投書家として活躍していたため、この程度の雑誌ではあきたらず本格的な文芸雑誌の創刊を出す計画を立てていた。
 その編集者として新進歌人としての名声が高まってきていた牧水に意中を打ち明けたものだった。
  『新文学』発行の夢が潰えたばかりの牧水にとって渡りに舟の話だった。二人の間でとんとん拍子で計画が組み立てられて行った。
 来年三月に創刊。誌名は『創作』ということまで大みそか前に決定する有様だった。
 そのころ、歌壇は一向に振るわず文芸雑誌も沈滞ぎみだった。むしろ、東京朝日新聞が夏目漱石主宰の文芸欄を設けて森田草平、小宮豊隆らが編集にあたり、『早稲田文学』『文章世界』『趣味』などの文芸雑誌に対抗する状況だった。
 総合文芸誌の新登場には好機と思えた。
 西村は後に『創作』のほかに『朱樂(ザンボア)』『青鞜』『黒燿』『生活と芸術』『番紅花(サフラン)』『未来』『短歌雑誌』などの雑誌を発行、牧水の『別離』、石川啄木の『一握の砂』『悲しき頑具』、土岐哀果の『黄昏に』、斉藤茂吉の『赤光』、北原白秋の『思い出』『桐の花』、三木露風の『白き手の猟人』など秀れた詩歌集を出版する。
 明治末期から大正初期にかけての文学を推進した舞台裏の功労者である

 牧水はこの年。恋愛、事業、ことごとく意に反して悲痛の極みの中で新春を迎えたが、運とは不思議なものだ。少なくとも事業面では曙光を見出して年の瀬を送ることになった。 
「創作」時代
(1p目/10pの内)




 挿画  児玉悦夫
「創作」時代
(2p目/10pの内)





挿画 児玉悦夫
 牧水としては大いに期するところがあった 『独り歌へり』も一月一日発行としながら旧年内に名古屋から送ってきた。
 菊版で本文は五号活字四首組百四十n。明治四十一年四月から四十二年七月までの作五百五十一首を収録した。
 発行所は名古屋市南区熱田須賀町、八少女会。定価四十五銭。牧水の注文通りの本になっていた。
 ただ、発行所の都合で印刷部数が二百部。この歌集で自分の真価を世に問う自負心に燃えていた牧水にとって余りにも少なかった。
 期待が大きかっただけにひどく落膽した。
 そのむなしさをまぎらすために新年の五日から伊豆半島をめぐる旅に出た。

    わが船は岬に沿へり海青しこの伊豆の国に雪のつもれる

 第二歌集による華々しい全国デビューの夢は水泡に帰した。だが、『創作』創刊の計画がある。
 希望を抱いて旅から帰った。
  『新文学』と違って基礎がしっかりした書店が発行所になる。資金の心配はなかった。
 それだけに世間の注目を集めるに足る雑誌でなければならない。
 西村のほか前田夕暮、佐藤緑葉、富田砕花らと計画を練りに練った。そして『創作』の登褐て廃刊されることになった『紅塵』の終刊号(二月号)に広告を大々的に出した。
 三月一日創刊の『創作』第一巻第一号に登場する作品と作者の紹介だ。
 歌が尾上柴舟、金子薫園、窪田空穂、前田夕暮、北原白秋、三谷蘆華、若山牧水。
 散文、長詩に仲田勝之肋、永代静雄、白秋、加藤介春。
 評論、小説、小品欄に相馬御風、太田水穂、佐藤緑葉、板橋章一。
 堂々たる顔ぶれである。それに四六倍判本文八十八n。雑誌の体裁も気がきいていた。
 創刊号は、牧水、西村の意図どおり果然全文壇の目を見はらせた。
 第二号には与謝野鉄幹、吉井勇、岩野泡鳴、蒲原有明らも寄稿した。全国からの若い詩歌人の反響もすばらしく投稿が編集室の机上に山をつくった。
 牧水の得意は想像に余る。
 その余勢をかって牧水の第三歌集『別離』が、東雲堂から四月十日に発行された。
 装頓は石井柏亭。表紙は水色の濃いクロースに黒い箔で小田巻の模様を押し、その花だけが金色。重厚である。
 収めた歌は『海の声』『独り歌へり』収録の作品に新作若干を加えた一千四首。口絵に牧水の写真をのせた。
 牧水の真価を世に問うー冊てあった。  
    『海の声』は七百部印刷して売れたのは三百冊に過ぎなかった。『独り歌へり』は出版数がもともと二百部。全部が売れたとしても知れた数だ。それに名古屋地方が中心になる。
 いずれにしても、牧水の意気込みに比べてはまことに寥々たるものだった。
  『別離』は違った。発行所東雲堂書店から東京はもちろん地方まで販売網に乗せて配本された。
  『創作』第三号(五月号)には、尾上柴舟、前田夕暮、佐藤緑葉、はるの鳥の四人が筆をそろえて『別離を読む』の批評文をかかげて激賞した。
 太田水穂はよ〃比翼詩人〃と題して牧水の『別離』と、一ヵ月前の三月に刊行したばかりの夕暮の歌集『収穫』の二冊を取り上げた。窪田空穂は″最近の四歌集を読んで〃の中に牧水、夕暮の二歌集を入れて好評した。
 歌壇は『牧水・夕暮』時代の幕開けを迎えたわけである。
 同じ柴舟門下の双壁として注目されてきた若き二歌人が、この年の春、それぞれの出世作によって秀れた才能の花を開かせた。まさに絢爛たる登場であった。 特に

   幾山河越えさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく

   白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 が、熱狂的にむかえられ、若い人だけでなく文芸に親しむすべての人々に愛唱されるにいたった。
 このほか小枝子との恋愛の歌の数々も、情熱的でいて清新な調べが多くの共感を招いて絶賛を浴びた。
 その『別離』の作者牧水が編集する雑誌『創作』の人気が高まるのは当然の成り行きと言える。号を追ってページ数と印刷部数を増していった。
 早稲田大学卒業以後の懊悩時代がうそのような華やかな雰囲気に牧水は突如として包まれた。牧水青春時代の絶頂期を迎えた。
 しかし、それは表面上のことであった。
  『創作』第三号が出た直後の五月八日、牧水は西村への手紙にその一端を述べた。
  『−僕の眼にうつる全てのものは大方真っ暗だ。時々僕というものがあらゆるものに離れて、たった一つ、手もなく足もなく、真っくらくして存在していると思うと、五体の骨が身ぶるいする。寂しいじゃないか。僕の心はいまどっこにも寄りつく所がない』
 牧水の言う真っ暗なもの。それをもたらしているのは小枝子の存在であった。
 彼女が女児を産んで千葉県の稲毛あたりに里子に出している。そのことだった。

   
つづき 第49週の掲載予定日・・・平成20年11月2日(日)
「創作」時代
(3p目/10pの内)





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