第 34 週 平成20年7月20日(日)〜平成20年7月26日(土) 

第35週の掲載予定日・・・平成20年7月27日(日)

車 前 草 時
(1p目/9pの内)




 挿画 児玉悦夫
  明治三十七年は旅順を主戦場とする日露の戦火のうちに年の瀬を迎えた。 十月二十六日、乃木希典大将の第三軍が第二回旅順総攻撃の火ぶたを切ったが、さすがに露軍頼みの堅城。四日間で我が軍の将兵の死傷三千八百三十人に達したが落ちない。
 越えて十一月二十六日、一カ月の準備を重ねたうえで第三回総攻撃を開始した。死傷さらに一万六千九百三十五人を加える大激戦のすえ、十二月五日にようやく二〇三高地を占領するに至った。
 砲撃によって二〇三高地はその形容を改め、敵味方の死屍るいるいとして山を築き、鮮血はほと走って川となった。
 その形容があながち誇張と言い切れない惨状であった。
 だが、銃後の国民に伝えられる情報の多くは捷報のみであった。ことに海軍の戦勝ぶりは向かうところ敵なしの観さえあった。
 暮れの町のにぎわいは、その気分を反映してむしろいつもの年より華やかでさえある。
 牧水らが、ほとんど毎日のように顔をさらす神田神保町の本屋街に並ぶ雑誌類は早くも新年号のきらびやかな表紙が餅を競っている。
 そのうちの『文庫』には北原の長詩『全都覚醒の賦』が掲載されて注目を集めた。
 北原白秋の出世作になったこの詩は、同年十一月初めから時には一睡もせずに想を練り、詩句をすいこうした苦心作である。
 清致館に同宿して牧水は北原の砕身ぶりを知っている。この間、大学の授業にはほとんど顔を出さず、下宿とたまに図書館を往復するだけで、万葉、古事記など古典類と首っ引きの生活だった。
 この詩は、早稲田の『早稲田学報』の懸賞文芸の第一位に当選、その後、編集者が請うて『文庫』に転載したものである。
 『文庫』のほか、九月号に与謝野晶子の詩『君死に給ふこと勿れ』を掲載、大町桂月らとの間で論争を起こした『明星』、牧水の短歌を採用した『中央公論』など文芸雑誌の発行は多彩である。
 町をゆく婦人たちの間で『二〇三高地』『花月巻』などの新しい髪形が流行したのもこの年の暮れである。『二〇三高地』はもちろん第三軍激戦の地名から名付けたものだ。当時の戦勝気分がうかがえる。
 軍歌『天に代わりて不義を討つ…』も暮れの町に流れていた。
 その圧巻は東郷平八郎海軍大将の凱旋であった。三十日、牧水も朝食もそこそこに下宿を飛び出して霞が関の道わきで連戦連勝の提督を迎えた。上村中将、島村参謀長ら勇将とともに道路の両側を埋める群衆に、東郷大将はにこやかに笑みを返していた。
  明治三十八年、牧水は異郷で初めて、しかもただひとりで新年を迎えた。
 大みそかの夜は、夕方、同郷の甲斐猛らと誘い合わせて神田の淡路町に出た。小さな牛鍋屋に寄って一杯かたむけた。彼も滞京する。たがいに気分を引き立てようとするのだが、酒がすすまない。
 『静かに東都の年越しに敬意を表するか』
 わりと早く腰をあげて帰った。清致館の自分の部屋についたのが八時半だった。
 入浴して日記をつけ終わったところに女中が呼びにきた。下宿の主人が年越しそばを用意していると言う。
 北原らと主人好意のそばをすすって二階にあがったら午前一時を回っていた 元日は静かに明けた。朝寝して階下に降りたら雑煮、とその用意がしてあった。主人の昨夜からの好意がありがたかった。
 二日には、正月気分の国民を驚喜させる大朗報がとどいた。
陸軍省がこの日、旅順開城を発表した。旅順要塞守備の露軍司令官ステッセルが、陸軍第三軍の重なる猛攻に龍城を断念、一月一日、降伏を乃木司令官に申し出た。
 陸軍省発表当日、攻守両軍の間で『開城規約』の調印がすでに行なわれていた。
 『二〇三高地の激戦』、乃木希典とステッセルとの『水師営の会見』が話題として長く世に残る旅順攻略も、この日終止符が打たれた。日章旗を寒風になびかせラッパの吹奏も誇らしげに日本軍があの旅順要塞に入城するのは同月十三日のことになる。
 日露戦争の明暗を分けたこの攻防戦で、ついに日本軍は勝利を得たわけだが、この激戦による将兵の死傷数は実に五万九千人。
 余りに大きい代価であった。
 しかし、全国民は待ちに待った旅順開城にわきにわいた。牧水の若い血潮もたぎるおもいであった。
 『謹啓、御送付下され候金五円、正にありがたく拝受仕り候。おかげ様にて大に楽しいお正月を迎へ申し候、つつしんで御礼申上候。
 お正月だといふのに旅順は落ちるし、満都非常な騒ぎに候。小生相変らずこのさびしい部屋の机で餅をかじって、面白い本を読んで他人の騒ぐのを見て、しづかに笑って居り申候。』
 河野佐太郎あてに出した三日付けの手紙だ。
とりすました牧水の顔が見えるが、その実、彼の気分もたかぶっている。午後からは北原らと町に浮かれて出て行った。
 牧水が読んだ面白い本の中の『ホトトギス』には正岡子規の『仰臥漫録』と並んで夏目漱石の『吾輩は猪である』の掲載が一月から始まっていた。
車 前 草 時
(2p目/9pの内)




 挿画  児玉悦夫
車 前 草 時
(3p目/9pの内)





挿画 児玉悦夫
 この月の十日ころに本郷西片町の尾上柴舟方で歌会が開かれた。柴舟の流れを汲む牧水、前田夕暮、正富汪洋らが、柴舟を中心に結成した金箭会の初会だった。
 席上、『翼』を題に詠んだ歌を同人らで互選したところ、牧水の歌が最高点を得た。

      春の日は 孔雀に照りて 人に照りて 
         彩羽(あやは)あや袖 鏡に入るも

 この日は、汪洋と、彼につながる東洋大学(当時哲学館大学) の学生らは出ていたが、夕暮は病気のため欠席した。
 それで当日の会の詠草を知らせて欲しいと、柴舟に頼んでいた。柴舟は会の模様をハガキに書いて知らせてやった。
 『(前略)この会に兄の御出なかりしはいづれも残念におもひしところに候ひき、会名は金箭会とさだまり申候が、左様御承知被下度候。小生のその時もっとも感服せLは牧水君の翼(略) にて候』
 師の柴舟はこの歌にひどく感心していた。
 この歌は、翌二月から復活した隆文館発行の文芸雑誌『新声』の歌壇(柴舟選)の三月号に掲載された。
 同月号にのった牧水の歌はこのほかに

 若草や桃咲く路は闇ぞよき君が小窓の灯の漏れてくる
 病めば戸による日ぞ多き戸によれば母のみ国のほの島みゆる
 振袖の寝すがたかつぐ山駕寵のはだか男を捲く桜かな

 など合わせて七首がある。
 後の牧水の歌にはみられない華麗さがこれらの歌にはある。『明星』の影響を濃く感じさせる空想的な詠みぶりだ。
 金箭会の同人となった前田夕暮は、一時『牧水・夕暮』時代をうたわれた歌人だ。たがいにその才能を高く評価し、よきライバルと認め合っていた。
 夕碁は牧水より二歳年長で、明治十六年七月二十七日に神奈川県大根村に生まれている。
 中郡中学校に入学したがほどなく退学、当時『文庫』『明星』を購読して文学に日ざめ、三十七年に上京、尾上柴舟門下に入った。
 このころは国語伝習所、次いで二松学舎に学んでいた。
 彼が、牧水と並び称せられるのは、四十三年に刊行した歌集『収穫』によるもので、同年に出た牧水の歌集『別離』と共に歌壇の高い評価を得ることになる。
 彼は昭和二十六年四月二十日没するが、戦後間もないころ、牧水の郷里坪谷をたずねた。
その折、延岡の谷自路宅に泊った。

     襟垢のつきし袷と古帽子
        宿をいでゆくさびしき男  (収穫)

     風暗き都会の冬は来りけり
        帰りて牛乳のつめたきを飲む (同) 
  正富汪洋は明治十四年四月十四日、岡山県で生まれた。牧水より四歳上になる。
 当時は哲学館(東洋大学)に在学中で、のちに与謝野鉄幹の前夫人林滝野と結婚する。詩、短歌に秀れた作品があるが、後年は歌人よりも詩人としての名が高く、大正七年に創刊した詩誌『新進詩人』は昭和九年まで続刊している。
 金箭会を設立して間もない三十八年八月には初期の詩、短歌を集めた『夏びさし』(旭望書店)を、清水橘村と共著で出版するほか、翌年十二月にも同『小 鼓』を刊行するなど早熟な才能を開花させ、牧水らにその面で一目も二目もおかせている。
 しかし、牧水が汪洋の後塵を拝することに甘んじていたとは限らない。
 『−柴舟流の一派相寄って金箭会といふのを起しました。第一回会合に出席してみましたが、皆駄目です。一体人は名だけ遠くから聞いて奉っておくが結構なものです。
 柴舟の門下には女流の方に才物が多いらしいです。(大町)桂月は先日の演説でも(与謝野)晶子の詩をいぢめました。例の大拙弁で。新潮は、ころつき壮士で人のアラを探して遠吠するばかり』
 一月二十一日付けの鹿児島の平賀あてのハガキの文言だ。意気けんこう。前年四月に上京、大学構内ですら不案内でまごまごしていた田舎青年の面影はすでにない。
 『延岡の牧水ぢゃありません、天下たるべく一大要素を備へるのだって祝ってくれる人もありますけれど、あまりありがたい祝詞でもありますまい』
 このハガキに書き添えている一章にも、都会の文学青年など何するものぞの自負心があきらかだ。
 金箭会での最高得点と師柴舟の激賞が刺激になったものでもある。
 復活した『新声』には毎号、柴舟、牧水、夕暮、汪洋の歌が数多く発表され、期せずして歌壇の花形になった。
 そのうち九月号からは『車前草社詩草』として彼らの歌が別組みで掲載されることになった。車前草社は金箭会が発展的に改称したものだ。
 牧水の『新声』での名声が縁で早稲田同期の土岐善麿とも親しくなった。
 土岐は東京浅草に生まれ、府立一中から早稲田に入った人で、牧水らと違って都会人である。当時は湖友と号して金子董園選の『新潮』歌壇白菊会で活躍していた。牧水、白秋と同じ明治十八年生まれで、二人と連れ立って武蔵野をはい回することになる。
 都会人土岐の自然への開眼は、牧水らとの学生時代の武蔵野散策の所産である。

   
つづき 第35週の掲載予定日・・・平成20年7月27日(日)

車 前 草 時
結   婚

(4p目/9pの内)





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