第 35 週 平成20年7月27日(日)〜平成20年8月2日(土) 

第36週の掲載予定日・・・平成20年8月3日(日)

車前草社
(5p目/9pの内)




 挿画 児玉悦夫
 三月には牧水も北原白秋も清致館を出た。
白秋は、『文庫』に掲載された『全都覚醒の賦』の好評以来、詩壇の若き星として名声が高まっている。大学の教室にいるより下宿に独居して詩作にふける日が多かった。
 閑静な部屋と自由な時間が欲しいと、高田の馬場に一戸建ての家を借りて移った。
 牧水にとって清致館の魅力は、文学上兄事する白秋が同じ屋根の下に起居していて朝夕となくつきあえることだった。
 その白秋がいなくては、単なる下宿屋に過ぎない。それに経済的な理由もあった。
 三月の五日から第三学期が始まった。授業内容の進捗に伴って新しい教科書が必要になる。それが高価だ。
 フランス語辞典は二円三十銭もする。これはどうしても必要だ。そのはか、毎日の授業に欠かせない教科書が三冊。いずれも一円五十銭だ。
 神保町の古本屋街で見つけた古本を購って間に合わせるにしても最低二円は必要だ。毎月の故郷からの送金では買えない。
 かと言って、坪谷の老いた両親に定額以上の送金は到底頼めない。心苦しい限りだが、都農の河野に泣きつくはかはない。
 十日に、義兄あてに苦衷を訴える手紙を出しておいたところだ。これからもこうした切端詰まった状態が続くことだろう。
 一円、いや五十銭でも滞京経費を節約したい。幸い、同じ悩みの学友がいた彼と相談の結果、一部屋借りて二人“て共同炊事をすることにした。不自由だろうが、幾らかでも生活費が安くつくはずだ。
 二人で探し回ったあげく、小石川区豊川町にあった。市川きくという年配の婦人がやっている貸部屋で、共同の台所でいいなら安くで貸すという。
 白秋が高田の馬場に移ったのが上旬。月末から牧水も市川宅で自炊することになった。
 授業の関係で友人は午前中に登校する。牧水はもっぱら午後になる。自炊当番は朝食が牧水、夕食が友人という役割りになった。
 マキで炊くのだから手間がかかる。午前六時二十分までに友人を送り出すには、五時前には起き出なくては間に合わない。
 四月に入って佐太郎に出した手紙に『−何か御馳走があるときは送って下さい。タイ、カツオ、クジラ、いやカツオブシなど久しくたまって好都合でー』と、冗談めかしておかずこしらえの苦労をつづっている。
 本代はどうにか義兄にすがって助かったが、予科から本科へ進むにつれて学費がかさみそうだ。少なからぬ不安があった。
 傍で考えていたより自炊には苦労が多かった。だが、がまんのほかに手はない。
  土岐湖友とはおかしな出会いから親しくなった。
 当時、早稲田の予科の国文担当に永井一孝教授がいた。学生間の評判が余り芳しくなかったが、とりわけ牧水にはなじめなかった。
 それが永井教授にもよみとれるのか、牧水への態度が冷たく、『田舎者のくせに−』と、見くだすような気配があった。
 授業には出るがおもしろくない。いつも隣合わせに座る藤田進一郎(紀水)と時間中あだ名をあれこれ考えるやら、口まねをするやら悪態の限りをささやき合っていた。
 ところが、牧水の前の席の二人も、同じように永井の悪口を言っている。聞くとそれが極めて辛辣でいて軽妙だ。日向と紀州出身の牧水、紀水のそれなど比較にならない。
 いつか脱帽して前の二人の江戸前の毒舌を傾聴することになった。
 その数日後、にわか雨に降られた。学生らが多勢困惑しきっている。たまたま牧水は傘を持ってきていた。見ると、強い雨足をうらめしげに見ている学生の中に、くだんの江戸前学生二人の姿があった。つかつか寄って行って傘をさし出した。
 『使いませんか。ぼくは下宿が近くだからかまいません』。
 『助かります。浅草まで帰るん“てすよ』
 二人は傘の中で肩を抱き合って帰って行った。翌日、背の高い方の学生が傘をもどしにきた。そして自己紹介した。
 『ぼく、土岐です』
 聞いて驚いた。牧水は『新声』に秀れた歌を投稿している土岐湖友の名前だけは知っていた。湖友にしても同じだった。
 以来、二人の仲は急速に親密になり、たびたび小旅行を共にすることになる。 土岐は浅草区松清町の真宗大谷派等光寺の二男に生まれた。父善静は学僧で仏教、国学に通じているほか、柳営連歌の最後の宗匠でもあった。
 その影響で土岐も府立一中(現日比谷高校)当時から学友会雑誌に詩、短歌、俳句などを出すほか、金子董園選の『新声』歌壇に短歌を投稿していた。潮友の号は父がつけたものだ。また中学の同級に石坂泰三、一級下に谷崎潤一郎がいた。
 兄と姉のほかに妹和貴がいた。つとに美人のほまれが高かった。牧水は、等光寺をたずねて幾度も会うことになる。
 土岐は早稲田大学英文科を卒業後、読売新聞社社会部に入り、社会部長までになって大正七年に退社する。
 歌人として一躍有名になるのは、明治四十三年四月、『NAKIWARAI』のヘボン式ローマ字歌集を出してからである。 
車前草社
(6p目/9pの内)




 挿画  児玉悦夫
車前草社
(7p目/9pの内)




挿画 児玉悦夫
 尾上柴舟を中心に牧水、夕暮、汪洋らの金箭全、つまり車前草社が結成されたこと、さらに休刊中だった『新声』が復活したことから牧水の作歌意欲が、上京前、延岡中学校時代のように燃え上がってきた。
 三月号に続いて四月号、四月「陽春号」に合わせて十三首を投稿、以後毎月五、六首ずつが掲載されている。
 そのおもなものをあげると、

  鎮国の伽藍きづくと国挙げて石切りいだす朝ざくらやま (四月号)     

  春の日やさくらがくれにしのびきて山のわが背の木樵唄きく (同)     

  病むひとの枕きよめてまどあけて鴬呼べばあささくら散る (陽春号)    

 山たかみ滝のしぶきに散る花に笠してみればとはき海かな (五月号)   

 夏草の里にこもりてふたりしてあやめ葺く目を雨Ljかなり  (七月号)                                                     白秋の出世作“てある長詩『全都覚醒の賦』や、白菊会の俊秀土岐湖友と親交を得たことも影響している。いまや、牧水、汪洋、夕暮は『新声』歌壇投稿家中の花形トリオであった。
 七月には予科の一年半を終えて上京後初めて帰省した。神戸の長田方に一泊してその月の初めに坪谷に帰り着いた。
 その途次と故郷滞在中にも多くの歌を作り、そのうちの幾首かを『新声』の九、十月号に投稿、掲載された。

  子規鴫きぬ今宵のおん夢にわが去ぬると入りしやいかに
                         (郷に帰る日舟より母に)

  ほととぎす暗くなる山の大木に斧をふるへば霧亭っ降る
                             (以上九月号所載)

 この九月号では、別に『車前草社詩草』として夕暮三首、牧水、柴舟、汪洋の各二首を普通の歌壇以外に別ページをさいて発表している。

 牧水の二首は

 樹より樹へ木づたふ蔦を駒ながら手繰りて越ゆる滝多き山

 夏山や紅玉つづる石楠木にみどりながして朝の雨降る

 選者と花形投稿家三人が競詠のかたちになっており、以後各号に『車前草社詩草』または『−詩稿』として別欄になった。
 一年四ヵ月ぶりに帰省した故郷はやはりなつかしかった。帰り着くまでに道路まで幾度か降りてみたという母マキなど、物言う前にまず涙ぐむ始末だった お隣の寅おじゃんこと矢野寅吉ら近所の人たちも聞きつけてやってきた。東京の話を繰り返し繰り返ししなければならなかった。
 なつかしいのは人だけではない。炎天下青くかすむ尾鈴の遠望、鮎釣りでにぎわう坪谷川。すべてがそうだった。
  都農の河野佐太郎宅をたずね、美々津の福田家に寄って米子姉に礼を言ったりするうちに長いと思った夏休みも終わった。
一晩、河内の今西吉郎、トモ夫婦、昌福寺の金田大珍らが集まって小宴をはってくれた翌朝、坪谷を出た。細島の旅館に一泊して翌朝の便で海路神戸に向かった。神戸には二晩厄介になった。
 八月末に坪谷を出たのが上野駅についたのは九月三日になっていた。
 夏休み前から自炊生活に見切りをつけていた。生活費が安くつくと思って下宿を出たのが、部屋代、食費を計算してみると変わりはない。炊事に費す時間と気苦労がかえって負担になるだけだった。
 それで帰郷前に友人から紹介されていた豊多摩郡大久保村の松村次郎吉方に下宿を頼んだ。
 九月から英文科本科生になったわけだが、まず気がかりになるのは、予科時代より高くなる授業料など経費のことだった。
 帰郷中にもそのことで河野とも相談している。延岡中学校教諭の黒木藤太は前々から旧延岡藩主内藤家の奨学金を借りるようすすめていた。そのときもその話になった。
 松村宅に落ちついた翌々日、黒木から手紙が届いた。奨学金借り入れ志望者がすでに数人願書を出している。手遅れのうらみもあるが、とにかくツテを頼んで運動するから必要書類を送るように、とあった。
 同封してあった願書に必要事項を書き込み大学の在学証明書ももらった。肝心の保証人には河野佐太郎以外適当な人物はいない。
 六日には早速、願書を同封した手紙で、保証人を依頼した。
 河野には手間をかけるが、願書に署名捺印のうえ延岡の黒木に至急送付してもらうことにした。
 だが、手遅れがたたったのであろう、承認にはならなかった。黒木からの連絡を受けて牧水はがっくりした。それからは勉強にも手がつかなかった。
 十月初めから通学の都合で牛込区大久保余丁町の石原方に移った。素人家に世話になることにした。賄料が安かったからだ。
 十一月七日、そこから長い手紙をしたためて河野に送った。表書に『親展』としたうえに、手紙の冒頭に『ないしょでゆっくり見て下さい』と断わり書きをした。   『あてにしていた延岡の方を失敗してよりこれというあてもなくなりて、これよりどうして三年間勉強することが出来やうかと考へれば、なさけなくなるやら悲しくなるやらにて熱心に勉強する気にもなれず、九月より只今まで夢のように送り来り候−』。

   
つづき 第36週の掲載予定日・・・平成20年8月3日(日)
車前草社
(8p目/9pの内)





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