第 63 週 平成21年2月8日(日)〜平成21年2月14日(土) 

第64週の掲載予定日・・・平成21年2月15日(日)

沼 津 へ
(2p目/2pの内)




 挿画 児玉悦夫

 大正九年八月十四日夜、沼津に移転する牧水一家の送別会が、神田万世橋駅の二階のレストラン「ミカド」で開かれた。創作社の主催で在京の社友や友人ら約六十人が出席する盛会になった。
 その夜は、牧水もかなり酔い、社友数人と一緒に車二台を連らねて巣鴨の家に帰り、荷造りあとのがらんとした部屋で雑魚寝した。
 翌十五日夕方、沼津の狩野川のほとりの旅館『橋本屋』に着いた。翌早朝、青果市場に出荷する野菜を山積みした大八車が何台も何台も狩野川にかかるお成り橋を渡って行くのが宿の二階から見られた。
 『やっと落ち着ける所を見つけたねえ』
 大八車の上のみずみずしい香貫野菜に目をやって牧水と喜志子は顔を見合わせた。
 駿河湾に狩野川が流れ入る川口の西側が沼津町、東が楊原村である。後にこの町と村が合併して沼津市になる。
 お成り橋は沼津御用邸への通路になるためこの名があった。
 牧水が借りた家は楊原村上香貫、香貫山と呼ぶ小松が茂った小高い岡の麓にあった。部屋数が七つもある家で敷地が六、七百坪もあった。屋敷の周囲に桜が植えてあって春は見事な花を楽しませてくれた。
 屋敷の前を疎水が流れ土橋が渡してあった。
そこに立つと広々とした水田と狩野川の十手の薮が正面にあり、その上の空に愛鷹山と晴れた日には富士山が仰がれた。
 家といい環境といい、これほど恵まれた借家を世話してくれたのは神戸孝の父であった。父は退役の軍医で楊原村で医院を開業していたが、後に村長もつとめた土地の名望家であった。家賃の折り合いまでつけてくれた。
 上香貫に移った当初は牧水も喜志子も引越し疲れで半病人のようになっていたが、秋風が立つ頃には元気をとりもどしていた。
 静かな離室で歌作に精を出す日が多くなっていた。

  香貫山いただきに来て吾子とあそび久しく居れば富士晴れにけり

  海見ると登る香貫の低山の小松が原ゆ富士のよく見ゆ

 九月下旬には「創作」十月号の編集をすませて横浜の長谷川銀作をたずね、東京に一週間滞在して帰って来た。十月上旬には富士山の南麓に行き、中秋の広大な裾野の眺望を楽しんできた。

  富士が嶺や裾野に来り仰ぐときいよよ親しき山にぞありける

  なびき寄る雲のすがたのやはらかきけふ富士が嶺の夕まぐれかな

 中旬には名古屋に行き、名古屋新聞主催の短歌会に出席、中村柊花を伴って帰宅した。


 中村柊花は十日ほど滞在して帰った。だが、香貫に移って以来、遠来の客はもちろんまだなじみがないため土地の人たちの来訪もなかった。
 希望通りの静かで健康的な生活が続いたのだが、経済的にはひどく困っていた。

  居すくみて家内(やぬち)しづけし一銭の銭なくてけふ幾日経にけむ

  ゆく水のとまらぬこころ持つといヘどをりをり濁る貧しさゆえに

  三日ばかりに帰らむ旅を思ひたちてこころ燃ゆれどゆく銭のなき

 牧水の貧窮の一方で長谷川に経営を任せた『創作』の発行も惨憺たる状態だった。十月号は東京で、十一月号は休刊、十二月号を横浜から発行したが、申し訳に出したというだけの貧弱な代物だった。しかもこの一年間に出たのは五冊だけ。『創作』史上最も苦難な年になった。
 大正十年、白銀の富士を正面に仰ぐ香貫の家で初めての元旦を迎えた。四日には京浜から越前翠村や長谷川銀作夫妻ら数人の客があったが、これまでと比べると実に静かな正月であった。
 貧しさは相変わらずだったが、一家の生活が落ちついてくると、牧水の胸に浮かぶのは坪谷に住む母マキのことであった。一月十八日に都農の河野佐太郎家の養女になって婿を迎えることになった姪の春子に手紙を出した。 『−お前がそうなることはお前の幸せばかりでなく私たちも安心だ。だが、そうすると坪谷の家は老母とシヅ姉だけになる。それでは寂しいし、困ることだろう。私の考えではシヅ姉を絹(姪)が引き取り、お姿しゃんは是非こちらに来てもらうようにしたいと思うのだ。
 ここは東京で借りていた家の三、四倍の大きさだし、庭に畑もあるからお姿しゃんもそんなに窮屈ではないと思う。どうか来てもらいたいと思っている。お前たちからもそのように勧めてくれ。
 来て下さるとなると私が迎ひに帰ろうと思う。だが、非常に忙しいのと金の用意がないのとで急には帰れない。五月ごろになりはせぬかと思う』
 牧水は五月頃にと言ってやったが、思い立つと心がうずく。三月初めにも帰郷して母の意向を聞いたうえで都合ではそのまま香貫に連れて来よう。そう思って準備を進めていた。
 そのために前年五月から手がけたままになっている歌集『くろ土』の編集にとりかかった。だが、四月に四番目が出産予定の喜志子の健康がすぐれなかったため、帰郷はしばらく延期することになる。
 
富士が嶺
(1p目/6pの内)




 挿画  児玉悦夫
富士が嶺
(2p目/6pの内)




挿画 児玉悦夫

 牧水は、三月に坪谷に帰るのは早くから楽しみにしていた。前年一月から岡山県立矢掛中学校の教諭をしている平賀春郊にあてた一月二十三日の手紙でもそのことにふれている。
 『この三月か四月かに日向まで帰って来たい。お袋を連れて来たいが、手紙ではなかなかうんと言わぬので帰って説得しようと思う。その往きか帰りに矢掛を訪ねてみたい。 できたら帰省記を長編で書いてみたいと思っている。美々津に二、三日、尾鈴山にも一度、延岡、三田井、宮崎にもなど空想ばかりは面白い。大牟田の従兄にあいたいし、長崎にも一寸行って来たい。が、先ず第一その旅費の才覚をせねばならぬのだ。或は駄目かも知れぬ』
 当時、岡山市にいた愛媛県岩城村の三浦敏夫、大阪の井田虎男ら社友にも同じように連絡していた。だが、 『今度のお産はいつもより重いような気が
するの。ですから、三月いっぱいは長旅をせずにいて下さい』
 喜志子の作に次の歌がある。

  おもひたてばげに足もとの鳥よりもあわただしきぞ君が旅立ち

 そんな突然な旅立ちにもぐちひとつ言わず旅の仕度を整える彼女が、今度ばかりはいつになく心細げに頼みこむ。
 牧水もそれを押して九州旅行には行けなかった。だが、まるきり旅をあきらめてしまったわけではない。
 休養がてらに落ちついた所で仕事をしたい、と理由をつけて沼津から遠くない伊豆の湯ケ島温泉に出かけた。三月十六日のことだ。
 湯ケ島では初め『落合楼』に投宿の予定だったが、改築中だったため『湯本館』に宿をとった。
 湯ケ島温泉は天城山麓の渓問にあった。湯本館はその渓谷の上というより渓谷のただ中に在るといった感じで、聞こえるものは岩をかむ清流の音と、樹々を渡り、岩に舞い降りる小鳥の囀りばかりだった。
 牧水はその閑静さがまず気に入った。その上、他に客がないためサービスが行き届いている。居心地がよくてついつい泊まりを重ねてしまった。
 ふところは寂しかったが、普通四円の宿料を部屋を落として三円にしてもらい、毎日の酒代も八十銭にとどめて、一日でも逗留を延ばせるよう辛抱した。 二十七日に東京から和田山蘭が訪れ、二十九日に二人で湯本館に別れて江の浦海岸の三津に泊まり、翌三十日に沼津に帰った。
 湯本館滞在中は『創作』の選歌、紀行文集『静かなる旅を行きつつ』の編集の仕事がはかどり、実りのある旅になった。

 三月下旬に第十三歌集「くろ土」(新潮社)が上梓した。大正七年作四百二十七首、八年作三百二十一首、九年作二百五十一首、合計九百九十九首を収録した四六判、五号活字四首組で本文二百九十ページ、布製でこれまでで最も豪華な歌集になった。
 牧水は序文にこう書いた。
 『−これは歌集を出すごとに感じて来たことであるが(一、二の例外はあったが)私は常に旧い作より現在の作、即ち今日の自身に近い時の作を自ら佳しとする者である。実をいうと私はまだ十分に自分自身を試してみた気がしないでいる者である。そして漸次にそうした迂潤(うかつ)な心持を責めて来ている者の様に思われる。
 それで時を経るごとに多少ともの進歩は自分の上に表れて来ているかと自分では思っているのである。そういうなかにあって今度のこの『くろ土』には特にこの感じが強く動いた。『やれやれ今になって漸く自分には歌というものが解って来たのかなア』という気持である。
 延いては『これが真実の意味に於ける自分の処女歌集というものかも知れない』という気持である。それほどに私はこの『くろ土』に愛着を感じながら編集したのであった』
 『くろ土』を世に送り出した牧水の自信が余すところなく語られている。延岡に住んだ少年の頃から三十七歳の今日まで三十一文字に親しみ、人生を賭けてきた彼にとってひとつの時代を画するものと考えていた。
 また、大正十年二月十九日、編集をし終えた彼は、妻喜志子に対する気持を序文の末尾に卒直に記している。
 『−それから歌の取捨、改作のよしあし等で妻に相談してきめた所が多かった。苦しい清書(自分の歌を清書するのが斯うまで苦しいものである事を知ったのもこんどが初めてである)にも彼女を煩す事が多かった。無理な旅にもつとめて平気な顔をして出してくれた事などに対してもこの機会で彼女に感謝したい』。 

   みごもりていま手さへも触りがたきかなしき妻とそがひには寝る

   癖にこそ酒は飲むなれこの癖とやめむやすしと妻宣らすなり

   咽喉にやや熱ある覚え飲みくだす寒き麦酒は泣くごとうまし

  夜為事(しごと)のあとの机に置きて酌ぐウヰスキイの杯に蚊を入るるなかれ 
 いずれも『くろ土』所載の歌である。
 四月二日早朝、ふと東海道五十三次の丸子の宿の名物とろろ汁が食いたくなって寄寓していた青年を連れて家を出た。田浦の浦から静岡に出て一泊、翌日望みを果たして帰った。

   
つづき 第64週の掲載予定日・・・平成21年2月15日(日)

富士が嶺
(3p目/6pの内)





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