第 64 週 平成21年2月15日(日)〜平成21年2月21日(土) 

第65週の掲載予定日・・・平成21年2月22日(日)

富士が嶺
(4p目/6pの内)




 挿画 児玉悦夫

  四月二十六日に四人目の子供が生まれた。牧水の九州旅行を延期させるほど心配していたのだが、案じたほどではなかった。男の子で富士人と命名した。
 牧水が最も愛し、そして香貫の家から正面に仰ぐ秀峰富士にちなんだことは言うまでもない。旅人、みさき(岬)、真木子(母マキ)。いずれも牧水が愛するものから名をとっている。子供たちに対する牧水の父親としての卒直な愛の表現であった。
 その思いを歌にも何のてらいもなくまっすぐに詠んでいる。
 −四月廿六日次男誕生、富士人と名づく、今までになき可愛ゆきを覚ゆるも早や父となりはてし心からや−

 春の夜の暁かけてさし昇る月にかすめり香貫の山は
                             (その一、産婆をよびに)

 生れて来てけふ三日を経つ目鼻立そろへるみれば抱かむとぞおもふ
                                      (その二)

 貧しくてもはやなさじとおもひたる四人目の子を抱けばかはゆき

 四人目の末のみづごのとりわけてかはゆしおのれ病みがちにして
                                      (その三)

 五月七日には久しぶりに上京した。翌八日に『くろ土』の出版記念祝賀会が開かれるのと、そのほかに用件があった。
 祝賀会は午後六時から日比谷の日本倶楽部で開かれた。佐藤緑葉ら創作社社友七人が発起人になって呼びかけたもので、土岐哀果、野口雨情ら詩、歌人ら約六十人が参加する盛会になった。このあと二、三次会も開かれる豪勢さで、牧水にとってこれまではもちろん、その後もない盛大な出版記念祝賀会だった。
 そのほかの用件は、同月十五日に岡山市で地元の中国民報社主催の短歌会がある。招待されたのを機会に山陽路をめぐってきたい。その旅費を作ることだった。
 出版社などから金をかき集めて香貫の家に帰ったのが十一日夜。かなり疲労していたが十三日朝には岡山向けて出発した。さすがに休養のため大津に途中下車して一泊、十四日午後岡山駅に降りた。
 翌日の短歌会では延岡中学校からの親友で当時同県の矢掛中学校教諭をしていた平賀春郊と共に講演した。平賀は東京帝国大学国文学部を卒業した国文学者であり、歌人としても有名であった。
 前夜は三浦敏夫、春郊と会って痛飲、春郊も吉原旅館に同宿した。深酒のうえに春郊の寝言で熟睡できなかったため頭が重かった。
それでも講演は聴衆の熱心さにつられて快調だった。主催者の懇望で早稲田の学生時代中国路を旅して詠んだ歌『幾山河』の朗詠までサービスして大うけにうけた。
 春郊は万葉について語って感銘を与えた。


 講演のあと矢掛町の春郊の家に車を飛ばした。三浦も同行してその夜は妻節の手料理で深夜まで飲んだ。
 翌日は近くの小田川の河原を散策、牧水と三浦に土地の歌人、それに春郊、節の夫妻と長女久子、次女はる子の七人で記念撮影をした。
 そのあとまた酒になり牧水、春郊が即興の歌を作った。

 いのちありてけふのたのしさはるばるとたづねきてなれと
                   あひむかふなり   (牧水)

 さけやめてひさしきわれもまれびとのこのさかづきは
                   いなみがたしも   (春郊)

 しみじみとねがほにのびしひげみればたびゆくともの
                   やつれしるしも   (春郊)

 旅ゆく友牧水は春郊宅に一泊して岡山市にひき返して数日間滞在、瀬戸内海の直島に渡って崇徳上皇配流の古跡をたずねたり、名物の鯛網漁に興じたりして過ごした。
 二十日に高松に渡って一泊、二十一日は別府航路の汽船で大阪に行き歌会に出席した。このあと二十五日には京都に着いて六月二日夜まで逗留した。
 岡山、高松、大阪、京都。どこでも社友らに迎えられて歓待された。歓待と言えば酒に尽きる。
 牧水は『創作』五月号の『編輯所便』に今回の旅行日程を知らせたうえで次の文を付け加えている。
 『我侭を言うが、どうか私に酒を飲ませて下さい、そしてどうか飲ませずに下さい。せいぜい晩酌三合という事にしておいて下さい。それから盃のやりとりは一切の場合絶対にせぬことにしますからこれも予めお含みおき下さい。諸君の大に飲むのは構わない。私は甚だ楽しくそれを眺めるであろう。そしてまた与えられた自分だけの酒をちびちびと極めて楽しく嘗めているであろう。
 どうか私によき旅とよき歌とよき文章を、そして最も少なき酒を与えて下さい。そして更に我侭をいうならばどうか夜早く十時頃には眠らせて下さい。朝はいくら早くもよろしい』
 だが、この殊勝な心掛けをほごにしたのはほかでもない牧水自らであった。結局は酒酒酒の毎日、そのうえ直島で鯛網を見物した船中で風邪をひいたのが一向に治らず、京都に入ったときは半病人の有様だった。
 当初の心づもりでは、京都で数日間休養したうえで神戸から船で日向に渡り、坪谷の母をたずねるはずだった。ところが、どうにも行ける状態ではない。
 やむなく京都から母あてに行けぬ事情を知らせてやった。折り返しにマキから電報が届いた。『ヤマイキヲツケヨイトキカへレ』
富士が嶺
(5p目/6pの内)




 挿画  児玉悦夫
富士が嶺
(6p目/6pの内)





挿画 児玉悦夫

 六月二日の夜行で京都を出発、三日に香貫の家に帰りついた。
 母マキには、今回は断念したが秋にはきっと坪谷に帰る。それまでに都農の河野佐太郎や河内の今西吉郎の両夫婦と相談してこちらに来て欲しい。  『−延岡の (長田)観禅叔父もこれから東京住まいになるそうです。沼津と東京とでは汽車が四時間かかれば往復(ゆきき)できます』と書き添えて、庭の中に畑もある香貫の家に是非来てもらいたい、と手紙を出した。
 二十日間の旅で牧水の身体は極度に弱り切っていた。七月中旬に散文集『静かなる旅をゆきつつ』、その前に『アルス名歌選』の第一篇として前田夕暮選の『若山牧水選集』、第二篇として牧水選の『前田夕暮選集』がアルスから出版されたが、その他は八月初めごろまで仕事らしい仕事をしていない。
 『まだ、何事もようせず、部屋の中にじっとしています。病気と言うより、急につつしんでいる酒の為に、酒精中毒者の罹りがちな放心ちほう症に罹っているのでしょう。四十二の厄年が少し早目に来たのかも知れぬ。丁度これで半生のまく″だろうと笑っています』(七月中旬)
 『創作』七月号の巻末に『二言』と題してこう自嘲している。
 八月に入って少しは元気を取り戻した。それで、以前から交際があった日本舞踊の藤間静枝が伊豆の吉奈温泉に保養にきているのに誘われて六日の午後、彼女が泊まっている東府旅館に出かけて一泊した。

 みじか夜をひびき冴えゆく築庭の奥なる滝に聞き恍(ほ)けてゐる

 そのおりの歌である。
 中旬には朝早く庭からはるかな富士の裾野を眺めているうちに急に思い立って駅に駆けつけた。梶野駅で下車して一泊、翌日付近を散策して御殿場駅から沼津に帰った。

 みそ萩の花にほこりのほのみえて葉がくれにゆく水の音きこゆ

 涼しくなると健康もかなり回復してきた。元来の調子の歌も詠み出るようになった。ただ、五月下旬ごろから節酒しているのだが、数年前から患っている胃腸病が治らない。
 そのため『胃腸病には日本一きく温泉』と勧める友人らの言葉に従って信州南安曇郡の奥の白骨温泉に湯治に行くことになった。
 九月十七日に上京、知人宅に一泊して翌日中央線で松本に行った。松本中学校に勤めている綿引蒼梧の下宿に落ち着いて翌日にでも白骨温泉に出発のつもりだった。
 ところが、郵便局のある島々村までは自動車が通るが、それから先は三十二`余の山道を歩かねばならぬというのに辟易した。

 心細げな牧水を見て綿引が数日待てば送って行ってもいいと言う。それを頼みに滞在を重ね、白骨行きは二十五日になった。それも疲労しているため途中で一泊、白骨温泉の湯治宿斎藤本店には翌日午後四時に着いた。
 白骨温泉は標高千四百b。北アルプスの南部、穂高連峰と木曽御岳の間に周囲の山々に比べてまろやかな姿を見せる乗鞍岳の東側中腹にあった。
 険阻ながけ下に四軒の旅館とそば屋が二軒、それに雑貨屋が一軒あった。七軒の家から炊煙が立ちのぼるのは春五月から晩秋十一月まで。残りの五ヶ月は住人たちが全員約十二キロ余下方の村里に降りる。あとはひっそり丈余の積雪に埋もれて雪どけを待っている。
 しかし、開業期には近郷の農家の者たちが養蚕業の骨休みに登って来る。九月中旬から十月初旬には湯治客が八百から千人に上る。宿の部屋数は知れている。そこへこれだけの宿泊客が来るとなると、いきおい部屋は追い込み。たたみ一枚人一人が普通−と言う。
 牧水はそれを聞いて当惑した。胃腸病の湯治もだが、山奥の秘湯でゆっくりしたい。その願いがかなえられそうにない。
 だが、案外に宿泊客が少なく綿引と二人一部屋に通された。たたみ一枚人一人のぎゅうぎゅう詰めは免がれた。
 実は信州の主産業である絹糸業界は二年越しの不況にあえいでいた。前年十一月一日には全国生糸業者大会を開いて七十八日間の全国一斉操業休止に踏み切ったほどだ。
 その波は養蚕農家がもろにかぶる。そのため湯治客も例年の三分の一。最盛期でも四、五百人どまりだった。
 綿引は一週間泊まって下山したが、その夜には親友中村柊花が老母を伴って登って来て同宿した。八日には中村母子も帰って行った。
 その朝、牧水も母子といまひとり一緒に帰るという女客の三人を送って温泉から四`ほどの檜峠まで送って行くことにした。
 四人が落葉を踏みしめて登る国有林の山毛棒(ぶな)橡(とち)樅(もみ)栂(とが)など常盤木の葉が真紅に燃え立っている。一カ月ほども降り続いた雨が二日前にあがった。それでいつもの年より遅れていた紅葉が一時に色を濃くしたものだ。
 牧水の故郷南国日向の山の紅葉と北アルプスの紅葉は色彩の鮮烈さが異なる。その織りなす紅葉のはるか遠くに見えかくれする白蛇は梓川のみなかみである。
 晴れ渡った正面の空には焼岳が岩膚のあちこちから白煙を噴き出している。牧水はその大景観の感動を即興の歌に詠んだ。

 冬山に立てるけむりぞなつかしき一すじ澄めるむらさきにして

   
つづき 第65週の掲載予定日・・・平成21年2月22日(日)

みなかみ紀行
(1p目/11pの内)





挿画 児玉悦夫
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