第 61 週 平成21年1月25日(日)〜平成21年1月31日(土) 

第62週の掲載予定日・・・平成21年2月1日(日)

比叡と熊野
(4p目/8pの内)





 挿画 児玉悦夫

 牧水は二十四日は京都に泊った。社友坂部広吉に迎えられて旅館で一杯傾けたが、七日ほど古寺に滞在したあとだけに酒も料理も格別の味でいつもより早く酔ってしまった。
 本覚院の孝太郎爺のことを話すうちに涙声になってしまい、酌に出ていた仲居を驚かせる始末だった。そのあとで孝太郎爺を詠んだ歌数首を低吟した。

 わが宿れる寺には孝太とよぶ老いし寺男ひとりのみにて住持とて居らず

 比叡山の古りぬる寺の木がくれの庭の筧を聞きつつ眠る

 酒買ひに爺をやりおき裏山に山椒つみをれば独活を見つけたり

 その寺男、われにまされる酒ずきにて家も妻をも酒のため失ひしとぞ

 言葉さへ咽喉につかへてよういはぬこの酒ずきを酔はせざらめや

 酒に代ふいのちもなしと泣き笑ふこのえひどれを酔はせざらめや

 翌二十五日は迎えの社友と大阪に出た。その夜は創作社友に囲まれて支社歌会を開いた。二十六日は大阪歌壇元老会の歌会、二十七日はまた一般歌壇の人たちの歌会と、連日の歌会をこなして二十八日は奈良に行った。
 その夜は奈良女高師の教授たちの歌会に出てから猿沢他のほとりの旅館に泊った。翌朝は案内を断わって一人で春日野を歩いた。
 比叡山を下ってからずっと歌会続き。自分でもよく保てたものだと思うほど酒に明け暮れた。それに昨夜は飲み過ぎた。宿までどうたどりついたものか記憶もおぼろだ。慙愧の思いを振り払うようにして野に出た。

  吾子つれて来べかりしものを春日野に鹿の群れ居る見ればくやしき

  春日野に生ふる蕨はひと摘まで鹿の子どもの喰みつつぞ居る

 深い木立の奥から鹿がぞろぞろ出て来て観光客たちにすり寄ってくる。客の多くは幼い子供を中にした夫婦であった。
 残る朝露をはらって木陰の草の上に寝ころんだ。若葉の間に青い空かある。その空か続く巣鴨の家に妻と三人の幼な子がいる。
  『無理してでも連れて来るべきだった』。
 できない相談であることを知っていながらそう思わずにはいられなかった。閉じた両眼から涙があふれ両の頬をつたった。
 午後は女高師を訪れた。教授と学生の多くが歓迎して校内を案内してくれた。昨夜の酔態をわびると大ぎょうに手を振って 『とんでもございません。本当の酒の味わい方を教えていただきました。それに先生の美声、身も心もしびれましたよ』。
 短歌を朗詠したらしい。彼らの言葉に嘘はなさそうだ。牧水は内心ほっとした。 

 牧水は二十九日夕刻、奈良を出発して初瀬に一泊、三十日に和歌山駅に降りた。紀伊郡東野上村の創作社友野上草夫が、関西に来たならば是非寄ってほしいと、地図まで添えて手紙をくれていた。
 当初から予定に入れてはいたが、比叡山に逗留中から乏しかった所持金がほとんど底をついている。社友とは言っても一度も会ったことがない。金なしでどうしたものか、迷ったが結局たずねることにした。
 野上の手紙に虚飾はなかった。家族で歓迎してくれた。都合ではそのまま折り返すつもりでいたのが、彼の親切にほだされてつい二泊してしまった。そのうえ、当座の旅費まで貸してもらった。

  ながながしき旅のをはりを紀の国の友がり寄りで銭借りにけり

 六月一日、和歌浦港から南紀を巡航する汽船に乗った。勝浦港に降りて名にし負う那智の滝を見るつもりだ。
 乗船前に名古屋の尾崎久弥に手紙を出しておいた。『四、五日後にはお目にかかれるが頼みがある。東京に帰れば雑誌編集と金策の大多忙が待ち構えている。その前にどこか温泉で休養したい。その費用などで二十円くらい欲しいが、貴地で短冊、半折の揮毫販布会を開く手はずをしてもらえまいか』。そう依頼しておいた。
 汽船は日ノ岬、潮ノ岬の出っ鼻を回り、串本、古座の港に寄って勝浦に着いた。ほぼ一昼夜の船旅だった。
 勝浦港はあいにくの雨だった。牧水は、無数の小島や大小の岩の間を縫って港に入る船の甲板に立って雨霧につつまれた陸地に眼をこらしていた。 那智の滝は近くで見上げるより、港内からの遠望の方が全体がうかがえて見事だと聞いていたからだ。間もなく案外に山の低い所にかかる真白い大滝の神々しいまでの姿が雨霧を透してはっきり見えてきた。

  末うすく落ち来る奈智の大滝のすえつかたかけて湧ける霧雲

 勝浦港の港口近くの赤島温泉に二泊した。勝浦は熊野第一の港でふところが深い。折から盛漁期の鰹を満載した漁船が頻繁に入港、町は活気づいていた。

  したたかにわれに喰はせよ名にし負う熊野が浦はいま鰹時

 雨に降りこめられたのを幸いに休養日と決め、温泉につかっては大切りの鰹の刺身をさかなに紀伊の地酒を飲んで過ごした。
 五日になっても雨はやまなかった。おっくうでもあったが、思い切って那智の滝をたずねることにして軽便鉄道に乗った。
 那智では思わぬ騒動に巻き込まれる。
 
比叡と熊野
(5p目/8pの内)




 挿画  児玉悦夫
比叡と熊野
(6p目/8pの内)




挿画 児玉悦夫
 
勝浦ー新宮間を走る軽便を那智口駅で降りた。すぐに滝に向かうつもりだったが、余りにも雨足が強いため駅前の旅館に寄って小止みになるのを待つことにした。
 昼食を注文していると突然奥から男が飛び出してきて牧水の前に立った。その上、牧水の顔をまじまじと見つめている。
  『あなたは東京の方でしょう』
  『そうだが−』
 答えると、大きくうなづいて何処を回って来たかとたずねる。ありのままを簡単に答えると、『高野山に登ったろう』と言う。実は登るつもりを変更したのだが、不快になったのでわざと『登った』と答えた。
 そしたらまた独り合点して『二階にあがってください。東京からあなたを探しにきた人がいる』と言う。
  『だれが?。僕は若山と言うんだが』。
 と牧水が聞いたが、それには答えずとにかく二階に上れとしきりに勧める。
 そのあとやりとりしてみると、自殺のおそれがある東京の家出入と間違えられているらしい。『違う』といくら言ってもきかない。滝まで探しに行った家族の者が帰るまでどうしても引き止めると言う。
 旅館の者までその騒ぎに加わって昼食の用意もしていない。さすがの牧水も腹を立て『馬鹿にするな/・違うんだ』
 洋傘をつかんで土砂降りの雨の中に飛び出してしまった。
 むしゃくしゃしながら歩くうちに馬車が来た。さっきの旅館にいた連中が乗っていた。無言でじろじろ見ている。
 馬車を降りていざ滝見物になると、今度は馬車屋がついてくる。彼も『自殺のおそれのある家出入』と見て止め男を買う気でいるらしい。牧水はあきれて物も言えない。
 滝を真下から見たあと滝見屋という旅館についた。滝が正面に見える二階にあがって酒を飲んでいるとだれかが襖のすきからのぞき見をする気配があった。
 あとで聞いてみると、家出入の家族が面通しをして行ったらしい。それでやっと家出入騒動から解放された。
 家出入は東京のかなり大きい洋酒屋の息子で、手配の人相着衣が牧水そっくりだった。そのうえ、家族から大枚五十円の懸賞金がついていたため関心を集めたものだ。
 滝見屋の若いおかみから事情を聞いて大笑いになった。
 翌朝、那智山を降りて夜の汽船で志摩の鳥羽に向かった。
 船室に一人いると見知らぬ男がきまり悪そうな顔で酒瓶を提げてきた。昨日、襖のすき間からのぞいた男だった。
 
 牧水は雨の勝浦港を夜の汽船で出港、翌日鳥羽港に着いた。社友の宿願、中村に迎えられてその晩は伊勢山田の紅葉軒に泊った。もちろん酒。翌朝、彼らの案内で伊勢神宮に詣でた。
 内宮から二見浦に出て舟を雇い、沖で魚を釣った。久々の海の舟釣りは釣果を別にして楽しめたが、二見浦名代の夫婦岩は牧水にはいただけなかった。紅葉軒から巣鴨の喜志子にあてた夫婦岩の絵葉書にわざわざ書いた。
  『二見浦のこの岩は愚劣極るもの』。
 伊勢から名古屋を回って東京に帰り者いたのは十日。一ヵ月に及ぶ長旅になった。
 七月下旬には南光書院から第十一歌集『さびしき樹木』、新潮社から紀行、随筆小品を集めた『海より山より』が出版された。
 この月二十九日、六歳になった長男旅人が寝込み、続いて長女みさきも床についた。共に腸チブスと百日咳でかなりの重症だった。
 大正七年の春には世界的インフルエンザになったスペイン風邪がわが国に伝わり、翌八年にかけて大流行した。死者十五万人に及んだと報道された。
 スペイン風邪は免がれたが、旅人、みさきの容態は一進一退を繰り返して九月まで病床を離れられなかった。そのうえ、牧水と四月に生まれたばかりの二女真木子まで悪くなる有様で、夏から初秋にかけての若山家は惨澹たる状態だった。

 病む児等に昼はかかりつ夜起きてわれの為事(しごと)をねぼけつつする

 いざいまは飯ぞといへば起き出でてゐならび勇む泣くべかりけり

 牧水の病気は委縮腎という診断で、医者から『このまま酒を続ければ生命の保証はできない』と飲酒を厳禁された。さすがの牧水も一時杯をひかえた。

  酒やめてかはりになにかたのしめといふ医者がつらに鼻あぐらかけり
 
  飲み飲みてひろげつくせしわがもののゆばりぶくろを思へばかなしき

 喜志子のほかは家族みんなが医者にかかる始末で思わぬ物入りになった。  他に収入の道がないので、例の短冊会を開くことにして『創作』十月号に広告を出した。
 牧水短冊会
 左の染筆料を以て短冊、色紙をかかち、米塩の一助に当てんとす。拙を天下に曝すこと苦しけれども、また詮なし。今後本会以外、一切執筆せざるべし。
 用紙当方にて相調ふ。               牧水生 
   短冊一枚  金武円
   色紙一枚  金参円
 当時の牧水の定収入は雑誌四誌の選歌料が月約四十円あるだけだった。

   
つづき 第62週の掲載予定日・・・平成21年2月1日(日)
比叡と熊野
(7p目/8pの内)





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