第 60 週 平成21年1月18日(日)〜平成21年1月24日(土) 

第61週の掲載予定日・・・平成21年1月25日(日)

巣 鴨 時 代
(5p目/5pの内)




 挿画 児玉悦夫

 大正七年の元旦の朝はあわただしかった。除夜の鐘が鳴り終わるとすぐに床を抜け出たのだから此の上はない。
 真暗い庭に出て井戸から汲み上げた水で顔を洗い、四畳半の自分の部屋の火鉢の埋め火をかきたてて机に原稿用紙を広げた。だが、それを片付けて鉄瓶で湯を沸かして酒の徳利をつけた。
 午前二時だ。喜志子を起こして朝餉の用意を言いつけてから、暮れの二十九日から出て来て泊まっている青森の創作社友加藤東籬を呼び起こして酒になった。
 五時を柱時計が打つと急いで雑煮を祝って東籬を伴って家を出た。彼を三崎に案内することにして昨夜は早くから床についていたのだった。
 船で行くつもりが休航だというので東京駅から横須賀行きの切符を買ったが、汽車に乗ってから気が変わった。鎌倉で途中下車して鶴ケ岡八幡、長谷の大仏、観音と回った。
 ここから三崎に直行の予定だったが、観音堂から朝日にキラキラ輝やく海を見ているうちにまた気が変わった。伊豆の上肥温泉まで足を伸ばそう。
 東籬に相談しても彼に異存があるはずもない。汽車て沼津まで行き狩野川口の旅館に泊まって翌朝の汽船で土肥に渡った。
 伊豆西海岸の静かな温泉宿『明治館』に二泊して四日の夕刻、巣鴨の家に帰った。
 この計画は、雪国から出て来た珍客に温暖な海浜の新年を味あわせてやろうと考えたことだった。一昨年の三月、初めてみちのくを旅したおりに初めて東籬に逢った。

  もの言わぬ加藤東籬を見ばやとてはるばる急ぐ雪路なるかも

 北国の人らしく口数が少なく重厚な人物であった。それでいて実に細い配慮かある。彼の家に数泊したが、我が家のように気がねなく過ごすことができた。
 その返礼をしたかった。喜志子も快く応じて乏しい財布からそれなりの金を用意してくれていた。
 巣鴨に帰れば例によって来客続き。平生でも客の顔を見れば酒を出さねばすまされぬ牧水である。正月中は幾つかの新年歌会をふくめてほとんど毎日が酒だった。
 二月は七日から二十四日まで土肥温泉に滞在して散文集『海より山より』と歌集『寂しき樹木』の原稿を整理した。
 四月二十二日には二女が生まれ、真木子と命名された。
 五月から『短歌雑誌』に『おもいでの記』が連載され、九月号まで続いた。『庭梅』『牡丹桜』『祖父の事』など故郷坪谷の人と自然を追憶した小品集である。


 牧水は、『文章世界』新年号に掲載された秋の秩父の歌を中心に編んだ歌集『渓谷集』が五月初め、東雲堂から出版されたのを携えて同月八日から関西旅行に出発した。
 同夜、浜松で開かれる歌会に出席するためで、午前六時二十五分東京駅発の汽車に乗った。昨夜がおそかったためうとうとしていたらしい、車窓をたたく音で目がさめた。
 見るとプラットホームに長谷川、石黒、下島、広瀬の創作社友四人が顔を並べている。関西に行くことを知って見送りに出てきたと言う。窓を開けてあいさつをかわすうちに長谷川と下島が乗り込んできた。
  『一人旅て寂しいでしょうから大船まで送ります』と言う。止めて聞く二人ではない。
  『沼津まで退屈でしょうから』
 と、持たせてくれた四合瓶のせんを抜く始末で、下島はどうにか大船で降りたものの長谷川は腰が重い。とうとう国府津まで乗り越してしまった。
 長谷川の名は銀作。明治二十七年二月十一日、静岡の生まれ。東京商業学校在学中から『秀才文壇』『万朝報』に歌を投稿していたが、牧水の歌風に親しみ前年から創作社友に名をつらねていた。
 後に喜志子の妹桐子(潮みどり)と結婚、九年から十一年にかけて牧水を助けて『創作』の発行、経営にあたることになる。
 浜松は旅館『花屋』に宿泊、土地の歌人ら二十人ほどが集まって歌会を開いたが、歌のあとは例によって酒宴。最後の客が帰ったのは午前一時半をとっくに回っていた。
 九日は、重い頭を迎え酒でなだめて浜松駅発午前十時六分の汽車に無事乗車、午後六時四十分に京都駅に着いた。
 ここでも多くの社友らに迎えられて保津川下りや葵祭りを楽しんだあと十八日に大津に出、そこから船で琵琶湖を渡って坂本に行き、比叡山に登って山上の宿坊に泊まった。
 旅に出ても仕事をかかえている。文芸雑誌の歌壇の選を静かな僧房でする心つもりだった。選だけでなく俗界を離れた山上に籠っていれば自分自身の作品も生まれて来よう。今度の旅の楽しみにしていた。
 それで十六日には比叡山に登る予定だったのが、延暦寺の座主の葬儀があったためやむなく延期したものだ。
 そのうえ、四、五日は泊るつもりでいた僧房が制約があってー夜きりしか泊められない−と言う。がっかりしたがしかたがない。
  『伝教大師にも見はなされたらしいよ』。
 山内の茶店で船若湯をかしこみすすりながら残念がったら『なんとかしましょう』と、主人が宿の世話を引き受けてくれた。
 それが西塔の古寺・本覚院だった。
比叡と熊野
(1p目/8pの内)




 挿画  児玉悦夫
比叡と熊野
(2p目/8pの内)





挿画 児玉悦夫

 茶店まで迎えにきてくれた寺男の案内で本覚院に行った。寺はうっそうとした暗い木立に囲まれて建っていた。外観はいかにも壮大だが内に人ってみると相当に荒れている。
 寺男に案内されて部屋に通った。畳がしめっている。足の裏に粘着する感触が気になった。一間囲炉裏に真赤な炭火が山のようについであるのが救いだった。
 昼過ぎから古杉をつつむように降っていた霧雨が夕刻から本降りになった。太い雨脚が苔で滑る庭上を烈しくたたいていた。寺男がランプを持ってきたついでに雨戸をしめた。
 ほどなく夕食になった。茶屋の主人から 『寺男は一人で住んでいる。他に用意がないから食事は同じ物でがまんして欲しい」と言われている。
 牧水は強いて寺男の膳を自分のと一緒に運ばせ、徳利と杯も取り寄せた。茶屋から買って来た四合瓶二本を手元において二人で晩酌の杯をとった。
 これも茶屋の主人から聞いて来だのだが、寺男は仲々の酒好きだ。牧水が差す杯を拝むようにして飲んだ。
  『旦那さん、ワシらにまで杯をー。もったいない。こんな上酒を口にするのはもう何年ぶりのことですやら』。いじらしいほどの喜びようだった。
 はじめ固くしていた膝が酔うほどにくずれ
囲炉裏の側ににじり寄っていた。
 問わず語りに語る彼の身の上話がまた比叡山の山頂の古寺で聞くにふさわしい内容だった。彼はかなり耳が遠い。その分声が大きい。雨戸の外の滝のように烈しい雨音にも消されることがなかった。
 寺男の名は伊藤孝太郎。年齢は見かけより若く六十六歳。茶屋の主人より五つ年下だと言った。生まれは山の麓、牧水が琵琶湖を渡って船を降りた坂本で、土地ではかなりの農家だった。
 ところが、彼が農業を嫌って京都に出て西陣織の職工をしていたが、生来の酒好きがたたって幾度か失敗を重ね、それを苦にしていた妻が病死、ほどなく一人娘も後を追った。
 その後はお定まりの自暴自棄の酒が続き、西陣の織元もしくじって旅から旅を放浪、北海道まで流れてしまった。寄る年波に身動きも不自由になったあげく故郷に舞い戻ったのが六年前だった。
 故郷と言ったところで住む家もない。世話する人があってこの寺に住み込んだ。
  「もうワシらも長くはない。いつか死ぬまでに一度思う存分飲んでみたいと思っていたのが今夜かなった。やっぱり阿弥陀様のお陰に違いない。旦那、いつ死んでも本望だ』。
 ろれつの回らない寺男の目に涙があった。

 その夜はとうとう四合瓶二本をからにしてしまった。酒好きの寺男は『いつ死んでも思い残すことはない』を繰り返すうちにすっかり酔っぱらってしまい、鼻歌まじりで自分の部屋に倒れ込む始末だった。
 牧水も茶づけ一杯をかきこんで布団にくるまった。柱を伝う雨漏りに気を揉むうちにいつか寝入ってしまったらしい。
 目ざめると雨戸の隙間から朝の光が矢のように射し込んでいる。雨も上がっている。もう寺男は起きているはずなのに台所の物音ひとつしない。
 気にしながら寝煙草を吸っていると、雨戸の外から鳥の声が聞こえてきた。山内の鳥が一斉に合唱しているらしい。幾種類の声か小鳥好きな牧水でさえ識別できないほどだ。
 あわてて起きて雨戸を繰った。山の霧のせいか陽光がにぶい。ただ杉の木立の間に光るものがある。目をこらすと麓の琵琶湖の水面が初夏の朝日に輝いていた。
 庭に降りて筧で導かれた山の清水で顔を洗っていると寺男が帰ってきた。にこにこしながら手に提げた寵を見せる。青々とした自生の独活(うど)と笥が入っていた。
 本覚院には二十四日朝までいた。いま比叡山内に残っている十六、七の古寺のうち最も奥にあってもっとも荒廃している寺だったが、気の静まる毎日であった。
 選歌と原稿書きに疲れれば山内をあてもなくたずねた。カッコウ、ホトトギス、筒鳥の啼き声が杉の木立を縫って歩く牧水の周囲にまつわりつくようだった。
 毎晩の寺男との晩酌が実に楽しかった。茶屋から酒瓶を買ってば高くつくからと、毎日寺男が六`余りの坂道を上下して麗の酒屋からとってきた。牧水はその間仕事をしたが、寂しくなると渓間に降りてイタドリを採ったり、独活を掘ったりして帰りを待った。
 だが、この晩酌が大げさに言えば寺男の生き方を変えることになった。これまでは一合四、五銭の安酒を稀に飲むだけだったのが、牧水のお陰で上酒に澗をつけ、缶詰に箸をつけるようになった。忘れていた沙婆の味を思い出したわけだ。
 この寺は廃寺同然だから寺男の仕事もない。従って食と住の心配はないが無報酬同様だった。それが昔を思い出したばっかりに欲が出た。麗までの往復で寄った他寺の住職から『月四、五円は出そう』と話があったのを幸いに、牧水が下山したら本覚院を出ると言う。
 二十三日の晩は茶屋の主人も呼んで三人で酒宴になった。酔った二人は『旦那とも今生の別れです』と言って泣いた。牧水の杯にも思わず涙がこぼれた。
 翌朝、孝太郎爺が京都まで送ってくれた。

   
つづき 第61週の掲載予定日・・・平成21年1月25日(日)
比叡と熊野
(3p目/8pの内)





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