第 19 週 平成20年4月6日(日)〜平成20年4月12日(土) 
第20週の掲載予定日・・・平成20年4月13日(日)

進   学
(11p目/14pの内)





 挿画 児玉悦夫
 牧水の手紙は続く−
 
『−小生只今このままにて学業を止めてしまへば、今までの勉強が何の益にもたたず且つまた坪谷の者共四、五人は忽ち飢え死でも致すより外無かるべく、それにては、またあまりになさけなく候。
 この辺よく御察し下されし上、何卒人一人助くると思し召して、今より四年あまりの間、少々の御助勢なし下され度く、不肖繁伏して願ひあげまゐらせ候。
 早稲田に於て毎月、賄料七円にて授業料二円五十銭宛に御座候。それに雑費と書籍代にて都合月に拾三円は必要なるべく思われ候』
 このあと、必要経費を詳細に説明したうえで、賄料は坪谷からの送金、雑費と書籍代は自分の筆でのかせぎをあてる。佐太郎には月二円五十銭の授業料を加勢してほしい。大学を卒業したら必ず返済するので折り入ってお願い申し上げる・・。切々と訴えている。
 今西からは三月三日に返事がきた。前年暮れに坪谷の昌福寺ですでに方針を語っている。早稲田進学に賛成−とあった。
 肝心の河野からの返事は七日になってようやく届いた。不安の一方、あれほどに真情を吐露する手紙を出したのだから、承諾してくれたに違いない。期待の方が強かった。
 だが、がっくり肩を落とした。河野としては金の助勢の有無よりも、若山医院相続の責任を果たさず、文学という海のものとも、山のものともわからぬ学問を志す牧水の考えに反対だった。
 同時に届いた父立蔵からのたよりは、数回にわたる手紙の往復で、牧水の希望もわかった。早稲田大学への進学と、学資負担は何とかしよう−と承諾していた。
 そのうえ冬物の小包まで母の名で届いた。
 河野佐太郎の反対は痛かった。だが、ここでくじけては志望は果たせない。自ら気をふるい立たせて再度、河野あての手紙を夜通しかかってしたためた。
 翌日夜は、南町の柳田友麿宅をたずねた。
 『一度きりの手紙で目的を達しようと思うキミの考えが甘いよ。ウンと言ってくれるまで何度も手紙を出すことだね』
 彼もそう言った。それよりほか手だてはなかった。
 黒木藤太にはもちろん佐太郎からの返事は見せている。藤太は佐太郎の義弟にあたる。八日には早速、義兄あてに助力を願う手紙を出してくれた。
 自分も柳田という先生も牧水の文学的才能を認めている。将来必ず成功できると思うので協力してやって欲しい。貴家が月に二円や三円、月々出しても困ることはないはずだ。国家のためにも援助すべきだ・・・と。
 黒木藤太か河野佐太郎にあてた手紙は、理路整然、情味あふるる内容だが、商売人である河野の気をひく一言も付け加えていた。なかなかの知恵者であり苦労人でもあった。
 『・・二円や三円の金は月々御出金被下候とも卸困りなさる家にも無御座候ゆえ何卒御尽力被下度、是れも一種の商売の本入れと思召され度−』
 河野夫妻には子供がない。牧水は将来出世すること間違いない有為の人材だから、いま学資を出してやっておけば、必ず後日のためになる。そのための資本投下と考えてもいいじゃないかーと言っている。
 まあ、この駆け引きが効を奏したといっては河野に不都合だが、結果的には、黒木藤太の強い推輓が彼を軟化させたらしい。学資援助を承諾した。 弟と夫との間に立って気をもんだ長姉ス工もこれで胸なでおろした。坪谷の立蔵、マキの両親も『聞いてくれる』と信じてはいたものの、実際に言葉を聞くまでは心落ちつかなかった。
 牧水からの連絡で、都農も承諾−と聞いてようやくあんどした。
 『狂人のように』思いわずらっていた進学問題もこれで決着がついた。あとは、卒業に備えるだけになった。
 三月十七日から二十三日まで卒業試験でしぼられた。修身やや可なり。物理七題のうち三題とも当たった事なるべし。国文法やや可。英訳思った程になかりしも、出来たでもなし。幾何大の強敵、落弟はせぬならしー。
 国語可なり。三角わが軍全く利あらず、さんざんの体たらく。英(文法・作文)泣顔に蜂とは誰が言ひそめし。
 文学史かなりなりけむ。代数これが出来たら大変なり。歴史可でも不可でもなし。漢文可なり。地文可なり。
 ざっとこんな具合いで試験は終わった。
 いまひとつの宿題、校友会雑誌発行もようやく陽の目を見た。試験の中休みになった二十日に製本して届いた。予想外の出来あがりで牧水ら部員も大満足。すぐに内務省あてに雑誌発行の届出を郵送した。
 試験が終わった日の翌日、つまり二十四日には坪谷に帰った。
 その晩は、立蔵、マキの夫妻に末姉シヅら家族そろって身内だけの祝宴になった。
 難航を重ねた牧水の進学も河野の承諾で、本人の希望どおりに事が運んだ。あとは卒業式を待つばかりだ。
 東京遊学は若山家の台所に重い負担ではある。だが、家運傾いた若山家を祖父健海当時に蘇らせるための投資である。立蔵としては坪谷の村人に誇りたい気持もあった。
進   学
(12p目/14pの内)






 挿画  児玉悦夫
進   学
(13p目/14pの内)










挿画 児玉悦夫
  翌日と翌々日は東京遊学の準備で多忙な日日になった。持っていく着物類の仕立てや洗濯にマキとシヅはかかりきり。立蔵も何かと口出しするが、見当違いの指図でかえって邪魔もの扱いにされた。
 二十七日朝、山陰の叔父純曽方に寄って進学のあいさつをし、その足で河内の今西吾郎、トモ夫妻をたずねることにした。
 あいにくの雨になったが、富高に出て門川、河内と回り道をするより山越えで行くことにした。
 山陰から城ノ坂を通り、鶴野内から迫野内へ山路を行った。迫野内から河内への通は通称迫野内越え″という難所だ。ただ一人、傘をさして越えた。雨風は肌に冷たいが、山のあちこちに山桜がほころんでいた。
 三時に今西家に着いた。いつもにぎやかな校長住宅がひときわにぎやかな夜をむかえた。
 吾郎は酒は不調法だが、トモはたしなんだ。姉弟してさかづきをかわすのを好ましい目で吾郎はみている。
 『繁よ、お前も思い通りになったんだから酒もうめえじゃろ。トモが朝から用意して待っていたんだから遠慮せんで飲んでくれ。姉さんも、お前でも来んことにゃ好きなおミキが渡らんとじゃかり』
 長男稔ら小さい従弟たちは、東京遊学が決まった牧水を、まぶしいものを見るようなまなざしで見守っていた。
 翌朝、門川を経て延岡に向かった。中学在学中休暇になると訪れた河内も、上京すれば滅多にたずねられまい。昨夜のだんらんとは別に小さな感傷もあった。
 いよいよ三月二十九日、県立延岡中学校第一回卒業式が挙行された。
 卒業証書とあわせて牧水らが編集した校友会雑誌が卒業生全員に贈られた。実に一年かかりの発行になったが、卒業式での配付はタイミングがよく、ケガの功名とも言うべきであった。
 延中第一回生は入学時が百人、卒業生は四十八人だった。毎年かなりの落弟と退学者があったためだ。
 牧水の最終学業成績は修身七九、国語九二、漢文八八、文法作文八八、(外国語)読方訳解七一、会話書取八六、文法作文六三、歴史八四、地理七四、代数五九、幾何六四、三角五七、物理七一、体操七九、(平均)七五、操行甲下。
 四十八人中七番の席次で卒業している。
 延中在学中の成績をみると、一年級(平均点)八三、(操行)甲下、二年級八二、甲上、三年級七六、甲下、四年級七七、甲下、五年級七五、甲下になっている。
 延岡高小以来、八年間を過ごした延岡ともこの日限りで別れることになった
 卒業式当日は夕方から校長、職員、卒業生がそろって今山蓬莱館で謝恩送別会が催され、全員が出席した。
 午後八時から引き続いて生徒だけの卒業祝賀会を中町の喜寿楼で開いた。牧水は、牛飲猫食(食は少なければなり)と日記に書いているが、飲むことはまさに牛飲。全員大いに酔って気えんをあげた。騒ぎは夜半過ぎまで続いた。
 三十日は、下宿を引き払う支度とあいさつ回りで多忙の一日になった。
 佐久間から日野屋に回った。猪狩毅の両親が常宿の日野屋に来ているためだ。その足で大見達也宅に行き、連れ立って柳田友麿宅に夫妻をたずねた。夜はまた、猪狩の母親がわざわざたずねてくれた。
 翌日も朝早くから七、八軒も別れのあいさつに回った。牧水は律気な人である。在学中世話になった人を残らずたずねている。
 直井、門馬、寺沼ら友人が見送りに来てくれた。午前十時にはいよいよ出発。ついさっきまでは冗談を言いかわしていた彼らだが、別離は若者を感傷にさそう。涙流さぬ者はだれ一人としてなかった。
 特に牧水には感懐深かった。坪谷から延岡という田舎育ちの彼にとっては大都会に出てきた。心細い思いもした。それをたすけて楽しい日々にしてくれたのが、延岡育ちの友人たちであった。
 その日は途中、美々津で馬車を降りて福田家に寄ってあいさつしたあと、都農に行った。
 学資の件で無理な願を聞き届けてもらっている。河野佐太郎にはこれまでにない気おくれを感じた。だが、彼も姉ス工もいつもと変わりはなかった。心から牧水の中学校卒業を祝ってくれた。
 『いろいろ考えたが、お前の言うことを信用することにした。東京に出ても、坪谷の両親のことを心においてしっかり勉強せにゃ。オレたち夫婦のことよりそのことが一番ぞ』
 夫婦してさとす言葉にも素直にうなずけた。
 翌日坪谷に帰った。正直にいって河野に会ってはじめて肩の重荷をおろした気になった。
 二日は、村内に住む親族や近所の人たち三十人ほどが集まって門出の宴が催された。
 東京の早稲田大学がいかなる学校か、河野佐太郎や両親に書いて送った説明をこの席でもしなければならなかった。
 出席した者のうちの多くは文学がどんな学問なのか、牧水の説明では理解しえなかった。それでもエライ月給取りになる道であるらしいことは、おぼろげながらわかった。
 斜陽の若山家もこれで昔の繁栄をとりもどすことになるだろう。親族も近所の者たちもそう思うことにして祝盃を重ねた。

   
つづき 第20週の掲載予定日・・・平成20年4月13日(日)
進   学
(14p目/14pの内)








挿画 児玉悦夫
  「牧水の風景」トップへ