四十三年の生涯を終る
昭和 三年 九月十七日(1918)43歳


最後の写真


最後の旅姿

最後の家族写真

沼津「乗運寺」 牧水の墓

坪谷石原「牧水の父母の墓」
  昭和三年の新春を迎えましたが牧水の健康は勝れないで
 歌もほとんど作りませんでした。
  五月一日新調の旅行用のマントが出来ましてそれを着して
 伊豆の旅に出ましたが体の具合が悪いので四日で帰宅しま
 した。帰途千本松原で旅姿の写真を撮りました。この写真が
 旅姿の最後の写真であります。

  七月には第十五歌集『黒松』の原稿を整理し、八月には
 口内炎を起しまして食欲が減退しその上、下痢を起して衰
 弱して九月には病床に伏しました。
  その後病状は悪化の一途をたどり、九月十七日の朝、家
 族、親族、友人、門下生の見守る中に四十三年の生涯を
 終りました。

  十九日に告別式が盛大に行われました。
  親友の北原白秋が次の弔詞を捧げています。

  「謹んで若山牧水君の御霊前にぬかづきます。
  若山君、私たちはこう突然に逝去されようとは全く思いかけ
 なかったのです。
  私たちは君を失ってひとしく驚駭すると同時に君のため歌
 のために歌壇のために痛惜の情禁じえません。
  君の一生は専らに短歌の一道にかかっていられた。
  君は括淡にして真率辺幅をかざらず常に瓢々として歌に執
 し旅に思いまたひたすら酒に楽しんでいられた。
  自然を愛しその寂寥を寂寥とする心は君の本質であられ
 た。
  君のかぎりなき光芒はここより発せられ、またすえながく
 映照することと信じます。
  おそらく君を敬慕する後進の君の遺風を奉ずること更に
 切なるものがあられることと思われます。
  君を憶うと朗々たる君の吟声はいまなお私たちのみみに
 新なるをおぼえます。
  私たちは君をふかく哀傷し心からの私たちの弔辞をささ
 げたいと思います。」


  遺体はだびに付し、分骨して坪谷に帰りましたが、母が
 まだ存命中で「自分が一緒に連れて行くから」と云われる
 のでお遺骨はぼだい寺に預けておきましたが翌年母が
 死去しましたので、母の胸に抱かせて父母、祖父母の、
 永眠する坪谷石原の墓地に葬りました。
  
  今も牧水は、母の胸に抱かれてなつかしいふる里
 に永い眠をつづけています。


  牧水の作歌は九千首ちかくあり、歌碑も全国に三百基
 以上建てられています。