北  海  道  の  旅
大正十五年 九月(1926)41歳

   牧水は九月上旬に夫人同伴で北海道の旅に出発し十二月上旬に帰宅しました。
   八十日近い長旅でした。
   十月中旬三、四日旅程の余裕が出来ましたので登別(現在の幕別町)の黒田温泉で休養することと
  して 黒田温泉 に出かけました。
   当日の日記(北海道行脚日記)に牧水は次のように記しています。


        夕張炭坑にて


  北海道幕別町の碑「幾山河・・・」


     北海道上砂川町の碑

 十月二十三日朝帯広を発っ
て夕方砂川に着いた牧水夫
妻はそこで初めて北海道の
降雪に出会った。
 そのときの歌

秋すでに蕾をもてる辛夷の木

雪とくるころ咲くさまはいかに
   「十月十八日、(前略)
  午後五時過ぎ、この登別温泉黒田旅館というへ落着いた。
  札内駅から三十町程の所にあった。 これはまた恐るべき温泉宿で
 どうせ初めから覚悟はして来たものの宿屋全体が一種の廃屋じみて
 いるのである。 
  壁落ち、柱傾き、我等の通された八畳の部屋は、八畳ずつ四室が
 十文字に仕切られた中の一室なのだが、部屋と部屋との間の襖がす
 べて充分に締まらないので何の事はない三十二畳敷の片隅に坐ら
 せられた様な有様であった。
  而してこの三十二畳の部屋はお勝手より廻廊にてやや高みに登っ
 た離室風の部屋なのである。
  茫然として顔を見合せているところへ、ランプが点された。 
  若し、其時進藤氏が送って来ていて呉れなかったら我等夫婦はたし
 かに泣き出したに相違なかった。
  せめてもと炭火を山の様に俳熾し、徳利三四本ずつを取り寄せおき
 自ら燗しつつ相酌むことにし、強いて心を慰めた。
  他に相客とて無くたまたま我等三人の挙ぐる笑い声が異様に家に満
 ちて響いた。
  十時の汽車にて帯広に帰るという進藤氏を送って門前へ出た。
  素晴しい月夜である。
  『十三夜ですな』
  そう言って別れて行った進藤さんの姿はいつまでも野中の径に見
 えていた。
  門前を水の豊かな田川が流れていたが、其処にも練りつ砕けつして
 流れている月の影があった。
  霜が深いのであろう、身慄いの出る寒さである。

  十月十九日
  恐る恐る眼を覚す。 兎にも角にも無事に一夜は明けたのである。
  雨戸は無く、曇りガラスのガラス戸のみの縁側が晴らしい明るさを
 見せて居る。 
  立ってあけようとすると此処も開閉不能である。 便所に行く。
  落ち溜った壁土の上に草履を踏んで用をたすのである。
  而して其処の破れより快晴の空を確めた。
  辛うじて一二枚のガラス戸を引きあけたわたしは寧ろ呆れながらに
 眼を見張った。
  ツイ其処の庭先から驚くべき林が起っているのである。(中略)
  茫然としてこの不思議な林に見入っていると、その木の深みに何
 やらの鳥が啼く、啄木鳥である。
  一羽か二羽の声である。  やがて其処へ怪しい啼き声を先立てて
 姿を表わした鳥がある。    樫鳥である。
  三羽、五羽、七八羽、美しい羽根を見せて悠々として木から木へま
  い遊んでいる。 わたしは耐えかねて妻を起した。
  今朝早々この宿を逃げ出そうかと思うていたわたしの考えはこの
  林を見ると共に消えてしまった。 
  そして朝食の席で、懇々として細君に転宿の不可を説いた。(以下略)

  十月二十日、二十一日(略)

  十月二十二日
  (前略) 午後、この不思議な、そして思い出の深い湯宿を去った。
  おどおどと送って出た主婦の眼には涙があった。 屋後の森も、門
  前の小川も、誠に忘られ難い野の岡の麓の林の蔭の湯の宿であっ
  た。(以下略)」
  この縁で昭和十二年に黒田温泉に「幾山河」の歌碑が建てられました。
  その歌碑が縁になって、昭和四十九年に幕別町と東郷町が姉妹町の盟約を結びました。
  爾来毎年両町の青年たちが互に訪問して友交を深めています。





  朝  鮮  旅  行
  昭和 二年 五月(1927)41歳



金剛山
  昭和二年五月、牧水は夫人同伴で約七十日間「朝鮮」各地
 を旅行しました。


  この旅行で牧水は健康を害しましたが、帰途坪谷に立寄って母
 を慰め、亡父の墓に参り延岡から写真師を呼んで坪谷の風景を
 十数枚写させるなどしました。
  延岡でも数日を過しました。
  次の歌は、この時の作であります。

  なつかしき 城山の鐘 鳴りいでぬ

       
幼なかりし日 聞きしごとくに

 
帰宅後精々静養につとめましたが健康は回復しませんでした。