第 2 週 平成19年12月9日(日)〜15日(土)

第3週の掲載予定日・・・平成19年12月16日(日)

峡 の お く に
 
(5p目/10pの内)










挿画 児玉悦夫

  健海は医者として秀れていただけ“てはなかった。経済的にも才
 覚があった。医業が繁盛するにつれて山林や田畑を次々に買い求
 めた。
  積もり積もって一代で土地有数の財産家になりおおせている。
  また読書家でもあった。二階には十数個の書籍箱が並び、ぎっし
 り本がつまっていた。
  牧水は子供心にもそれを大いに誇りにしていて遊び友達に自慢し
 ている。
  えらい父親を持つと、子供の影が薄くなるものだ。多分に立蔵に
 もそんな所があった。
  だが、それは性格と処世の考え方の相違にもよる。決して立蔵も
 『凡庸の徒ではなかった』 (おもひでの記)。
  立蔵は弘化二年三月、健海の良男として生まれた。幼年時代か
 ら父から漢籍や医学を学んだ。文久元年、十七歳の春に大阪に出
 て、緒方拙斉の門に入り、同三年秋から肥後の五十君玄水につい
 て西洋医学を学んでいる。
  医者としての評価は高かった。ただ、父健海に似ず無類の酒好き
 だった。
  坪谷の若山医院行きつけの酒屋『伊勢屋』明治十一年当時の通
 い帳が残っている。
  七月二十一日、洒一升、代拾五銭
  七月二十二日、酒一升二合五勺、代拾八銭二厘(りん)
  七月二十三日、酒二升、代一二十銭
  一人で飲んだとは限るまい。それでも一日平均一升(一・八g)は
 飲んでいる。並みの酒量ではない。
  日ごろは、言葉少なく謹厳“てあった。ただ酔うと思いのほかの乱
 暴に及ぶことがあった。
  マキなど、幾度か白刃を突きつけられたことさえあった。
  情の深い人でもあった。他人を疑うことなど余程のことがないかぎ
 りなかった。このため、濡れ草鞋の連中にだばかられて成功などの
 っけから望めぬ事業に首を突っ込んだ。それで父が一代で築いた
 財産をあらかた使い果たすことにもなった。
  事業は鉱山の試掘などだった。破れても破れても成功の夢を見
 続ける小さな野心家であり、空想家であった。
  牧水にもその傾向を見る。『創作』発行に次ぐ『詩歌時代』の発刊
 がそれである。当時としては画期的な文芸総合雑誌として注目を浴
 びた。だが、結局は廃刊に追い込まれ、多額の欠損を埋めるため
 に揮董行脚に旅立たざるを得なくなっている。
 立蔵は父の遺産をなくし、牧水は生命をすり減らす結果になった。
  牧水が生まれた頃は、立蔵の事業も一時期に比べると静まって
 いた。それに費用に代える山林田畑をすでに失ってもいた。


  だが、立蔵の夢が霧消し切っていたかというと、そうではなかった。
   『今度ばかりは確かだぞ』 マキや子供ら、いや自分に言い聞か
 せながら石炭山の探鉱に連日出かけていた。その山は坪谷からか
 なり遠かった。数人の労務者を入れていた。
  濡れ草鞋の一人で四国の人らしい゛高橋さん″と言う男の話に乗っ
 たものだ。毎日、酒と弁当を携えて現場に通った。ノミとツチ、ダイナ
 マイトを仕掛けて岩山を掘削する作業を、二人は谷をへだてた山小
 屋から終日眺めて過ごした。
  牧水には幼な心にも母の嘆きがわかった。
 それにダイナマイトの発破音がこわかった。
 彼は、父が山に行くのを泣いて止めた。
 果ては、元凶“てある高橋に『行ってくれるな』と頼み込んだこともあ
 る。
  牧水をかわいがっていた高橋は酔ってもいたが、幼な子を抱きあ
 げて『ううう…』と泣くとも笑うとも知れぬ声をもらした。
  結局は、この山も確かではなかった。果ては高橋は立蔵とけんか
 別れしてこの地を去って行った。
  マキはこのころどうしていたのだろうか。
  坪谷だけでなく近隣の人々からも信頼される医術を持ちながら家業
 をかえりみず、空想としか言いようのない事業にとりつかれた夫に仕
 えて泣くに泣けない思いであった。
  それでも彼女は夫に尽し切った。後には産婆をし、ハリやマッサー
 ジ師のようなこともした。そして貧しい暮らしの中から、夫の好きな酒
 を買い、新鮮な魚を求めて食膳にのぼらせている。
  牧水は、
「母が私を愛していたことは並々ならぬものであった。それ
 は私が、ただ一人の男の子であり、末っ子であったことばかりではな
 い。
  私と言うものが生まれてからは、がらりと父の身持ちが直ったという
 一事が余程影響していたように思う。それはおりおり、母が涙を流し
 て私に語り、他人に語るのを聞いていたことである
−」と、のちに回
 想する。
  どうも立蔵の欠点ばかりをあげつらい過ぎたようだ。だが、牧水が
 物心つくころには四十四、五歳。当時と現代では年齢感が違う。
  『好々爺』然とした面もあった。
  後年、『みなかみ』時代の牧水は父と母をこう比べて詠んでいる。

    
母をおもへばわが家は玉のどとくに冷たし
               父をおもへば山のことく温かし

  このときの事情は異なる。だが、母に深く愛され、彼もまた母を終
 生恋い慕いつつも、最も肉親″を身近に感じていたのは父立蔵
 ではなかったろうかI。
  幼いながら肌に感ずるものがあった。

峡 の お く に
 
(6p目/10pの内)










挿画 児玉悦夫
峡 の お く に
 
(7p目/10pの内)










挿画 児玉悦夫

   母マキの話に移る。
 八重桜の根元で草鞋のひもを結び直す娘ぶりを健海、カメは見ほれ
 ている。彼女は老後の写真からも十分察しられるように美人であっ
 た。士族の娘らしい品位のある顔立ちでもあった。
  それを実際に聞いてもいる。もう二十年も前になる。西郷村小川
 時代の若山一家を取材するため同地区に行った。そこで一家を知っ
 ている老婆をようよう探しあてた。
  その当時、十七、八歳だった老婆が言った。
  『田舎にいるような人じゃなかった。そりゃあ、べっぴんさんじゃっ
 た』
  昨日のことのように思い出してくれた。
  牧水には、『路上』『みなかみ』『秋風の歌』
   『砂丘』 『黒松』、そして第一歌集『海の声』などの諸歌集所載の
 母を詠んだ歌多数がある。
  牧水にとって精神的に最も悩んだ『みなかみ』時代を除いて、素直
 に母を恋いしたう歌のみが残っている。
  その母もまた並々ならぬ愛情を牧水に注いでいた。そのことにつ
 いての牧水の思いは前に書いている。時としてその愛ははげしいも
 のでもあった。
  牧水とマキとの『みなかみ』時代の相克。
 それはあとでふれるが、母の怒り、憎しみもこのはげしい愛と表裏を
 なすものだ。つまり同体のものであった。
  深い愛をしのばせるエピソードがある。
  牧水は幼いころから虫歯が多くよく歯が痛むといっては泣いた。
 マキはその子を抱いてどうしようもない。自分まで一緒になって涙を
 流していたほどだ。
  
『私は母の涙をみると一層に悲しくなり尚さらに泣き上げたが、い
 つ知らずそれで痛みを忘れてー』
  母のふところに泣き寝入りしていた。
  それ“ても泣きやまないとしかけていた針仕事をさっさとやめて立
 ち上がった。牧水を背負い釣り竿を手に坪谷川に降りていった。
  『繁、きょうは何を釣ろうか。ハエンタか、イダ子かー』
  絶えず話かけて気をまざらわせながら、大きい岩、小さい岩をひょ
 いひょい渡り歩いたものだった。
  マキは四十歳前後であった。だが、思い出の中の釣りする母は、
 牧水にははたち前後の若い女性としか考えられなかった。
  
『母というより姉の気がした。更に親しいおんなの友達であったよ
 うに思われてならないのである』

       父おほく家に在らざりき夕されば
            はやく戸を閉じて母と寝にける                                     (路上)


   この母と子の愛の密度は濃かった。



   若山医院から三、四百bも上流、坪谷川が大きく曲るあたりに柿の
 木渕と呼ばれる深みがある。その対岸のカシ、ヤマモモの木などがこ
 んもり茂った杜(もり)に水神様がまつってある。
  マキは月のうちに日を定めて『丑(うし)の刻まいり』をした。深夜、牧
 水を背負って人知れず家を出る。田のあぜを踏み、渕の上流の浅瀬
 を渡り、暗やみの中の瀬音を無気味に聞きながら杜にはいって行っ
 た。
  水神様につくと灯明をあげ、落葉がつめたい土に母子がひざまずい
 た。
  『どうぞ歯が痛みませぬように−』
  一心に祈願した。恐ろしいま“てに神秘なひとときであった。牧水に
 対する母の愛情を異常なまでに想像させる光景でもあった。
  牧水には自然の持つ美しさ、強さ、寂しさを、ふるえるような感受性
 でうたいあげた歌が多い。歌だけでなく紀行文でもかなしいまでに繊
 細な心で自然を描写している。
  牧水を大まかに酒と旅の歌人と評するが、彼ほど自然を愛し自然を
 詠んだ歌人はいまい。
  その自然との通い路を心に刻みつけたのが、ほかならぬ母マキで
 あった。
  彼女はよく山に入った。春にはゼンマイ、ワラビ、竹の子類。秋には
 山柿、栗などを採取した。夫と言い争ったおりなど、かごを携えて山
 や野に向かった。幼い牧水はその後を追った。
  半日も山にいる日は、朝から弁当を作り、小さな瓶に酒を詰めてか
 ごにしのばせもした。
  見晴らしのよい草の上に座を作り、何かと牧水に語りかけながら、
 弁当をつかい、酒を口にした。
  そのひとときが、どんなに楽しいものであったかー。家計の苦しさも
 事業にとりつかれた夫への不満も、広がる自然の前には跡形もな
 かった。やがて開けゆく、ゆかねばならない未来への展望を牧水に
 託して、彼女なりの夢を青い空に描いていたのであろう。
  牧水がこの母の思いを理解するにはまだ幼なすぎた。しかし、自然
 への親しみはこのひとときのうちに彼の血肉の中に芽生えた。
  彼が海を感じたのもこの山遊びだった。ある日、通称豆とび山″
 と呼ばれた楠森塚に登った。ワラビ狩りのころだった。母が遠く東の
 彼方、わずかに白く煙って光るあたりを指さして言った。
  『繁、あれが海だよ』
  実感はなかったが、なぜか胸が高鳴った。
  その後も、山グミが群生する草山に登った。
  そこから『細島の海』というのが望まれた。
  それを見たさに幾度かよじ登った。
  頂上には松の木が二、三本あった。梢を鳴らして渡る風は海から吹
 いていた。

峡 の お く に
 
(8p目/10pの内)










挿画 児玉悦夫

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