第 91 週 〔完〕 平成21年8月23日(日)〜平成21年8月29日(土) 

君逝きて
(2p目/4pの内)





 挿画 児玉悦夫

 白秋の弔辞は切々として続く−。
 『おそらく君を敬慕する後進の者の遺風を奉ずること更に切なるものがあられることと思はれます。君を憶ふと朗々たる君の吟声はいまなほ私たちのみみに新なるをおぼえます。私たちは君をふかく哀傷し心からの私たちの弔詞をささげたいと思います』
 全国各地から寄せられた弔電は六百通を越えていた。
 いよいよ最後のときになった。遺族と極く親しい者たちが柩の硝子の小窓を開けて別れを惜しんだ。牧水の顔は実におだやかだった。ほどよく飲んでまどろんでいたいつもの寝顔そのままであった。
 それに、九月中旬はまだ残暑がきびしい。十七日朝から十九日の葬儀の日まで遺体をそのままにしておいていいものだろうか。身内の間で心配したものだった。だが、最後まで柩から屍臭らしき匂いはもれなかった。
 稲玉医師は『病況概要』の付記に次のように、この状況を記している。
 『九月十九日、御葬儀ノ日、近親ノ方々最後ノ告別二際シ御柩ノ硝子ノ小窓ヲ開キタルニ、滅後三日ヲ経過シ而モ当日ノ如キハ強烈ナル残暑ニモ係ラズ、殆ンド何等ノ屍臭ナク、又顔面ノ何処ニモ一ノ死斑サヘ発現シ居ラザリキ。(斯ル現象ハ内部ヨリノ「アルコホル」ノ浸潤二因ルモノカ)。
 当時の遺体処置の方法等から考えて極めて珍しい例であった。
 柩は創作社々友らによって桃畑のなかの草いきれがこもる小径を運ばれ、往還に待たせてあった霊柩車に移された。クラクションを長々と鳴らして車がスタートした。遺族や親類、知友、社友代表ら六十余人が十数台の車に分乗して後に従った。
 五時過ぎ香貫山の麓にある火葬場に着いた。
 牧水は大正九年八月十五日、東京をはなれて沼津在の当時楊原村上香貫の借家に移ったが、その家は香貫山の近くにあった。
 牧水はこの小さい松におおわれた香貫山をこよなく愛し、何かにつけて登ったものだ。一人のときもあれば、旅人やみさきを連れることもあった。

 海見ると登る香貫の低山の小松が原ゆ富士のよく見ゆ

 香貫山いただきに来て吾子とあそび久しく居れば富士晴れにけり

 きょうは四人の愛児や姉たち、多くの親しい人たちに送られて山の麓に来た。しかし、此処から先は牧水一人きりの旅路である。帰ることのない旅立ちである。
 火葬場の黒い煙突からうす青い煙が晴れた秋空に真っすぐに立ち昇ってゆく。暮れなずむ番貫山の麓にそよ吹く風もなかった。


 各地の創作社友らの多くは葬儀当日の夜汽車で帰途についた。翌二十日は、残った者だけで午前八時に骨上げに行き、帰って読経礼拝が行われた。
 大悟法には、座敷に居並ぶ肉親、社友らの中央にこの家の主がいないことが不思議に思われた。牧水の死の現実を改めて知らされる思いであった。いいしれぬ寂しさ、哀しみが胸にこみあげてきた。
 初七日の二十三日。遺骨を千本山乗運寺に預けた。その夜、最後まで残っていた河野ス工と大牟田の若山峻一も帰って行った。
 若山家は、法名『古松院仙誉牧水居士』の位牌をまつる仏壇の前に何となく集まる遺族と大悟法らだけになった。深い悲しみがこの広い家全体をつつみこんでいた。
 喜志子は悲哀と寂蓼の底にあってひとり気丈に耐えていた。若山家の今後のことのほかに創作社、とりわけ雑誌『創作』の発行をどうするかなど、結論を急がねばならない問題があった。
 喜志子は、義弟長谷川銀作や大悟法ら主だった社友のたすけをかりて一つずつ解決して行った。
 『創作』については、牧水あっての雑誌だから没後は当然廃刊になるものと考える人もいた。その声は喜志子の耳にも届いた。
 だが、創作社の社友らはその声を排した。『牧水先生の身体は亡んでも、その精神は生きている。その証(あかし)が雑誌創作だ。是が非でも続刊していこう』とする意見が全体を占めた。
 そして地区代表らの推挙で喜志子を主宰に仰ぐことに決した。
 喜志子は、もともと秀れた歌人である。だが、牧水の求婚に応じたときから彼を世に出すために自らのすべてを犠牲にする覚悟を決めている。
 そのために常に牧水の陰にあって表面に立つことがなかった。それがはからずも牧水の死によって『創作』を主宰することになった。彼女にためらいがないわけではなかった。
 しかし、社友らの私心のない励ましを力に牧水の遺志を継ぐ決意をした。  それは直ちに実行に移された。『創作』十月号はそのとき印刷段階になっていたのでそのまま発行、十一月号だけを臨時休刊とした。
 十二月号は、『若山牧水追悼号』として特集した。文壇各分野から多くの寄稿があり、本文四百nの重厚なものになった。
 『創作』は、以来喜志子主宰のもとに戦争激化のため十九年十二月号で自然休刊するまで継続され、戦後も二十一年六月に復刊、四十五年十月から長男旅人に受け継がれて現在に至り、牧水の精神は生きている。
君逝きて
(3p目/4pの内)





 挿画 児玉悦夫
君逝きて
(4p目/4pの内)




挿画 児玉悦夫

 牧水の遺骨は、自ら終焉の地と定めた故人の遺志を尊重して沼津市千本浜の乗運寺に葬むられることになった。
 それもはじめは同寺の墓地に余裕がないことからむずかしい事情もあったが、寺側と檀家の好意で九月末には場所が決定、十二月二十五日の百ヵ日の法要のあと同寺に納骨された。
 墓は二年後の六年九月建立された。『先生の墓は是非私たちの手で建てさせて欲しい』という創作社社友有志の懇望を遺族が受け入れて彼ら有志の手で建てられた。
 墓碑名の『若山牧水之墓』は乗運寺の住職で京都百万遍の法主を兼ねた林彦明の筆になる。建碑供養は同月二十四日営まれた。
 その前年、四年八月十四日に郷里坪谷で母マキが没した。行年八十二歳。法名心蓮院王台貞鏡大姉。牧水の遺骨はその後分骨されて坪谷の若山家の墓に納骨、父母に抱かれて眠っている。
 また四年七月二十一日には千本松原の中にある沼津公園に全国初の歌碑が建立され、盛大な除幕式と、千本浜道の劇場国技館で『文芸講演と舞踊の会』が催された。講演は土岐善麿、北原白秋ら、大悟法の牧水の歌朗詠に続いて生前故人と親交があった藤間静枝とその社中による舞踊が披露された。
 歌碑は富士山麓から大自然石が運ばれ、歌は代表作の一つ『幾山河』が選ばれた。費用は全国の牧水ゆかりの有志が拠金した。
 さらにこの年の八月から改造社刊の『牧水全集』(十二巻)が、第三巻『歌集』から発行され翌年八月に完結した。
 牧水が最後に詠んだ歌は作歌ノートに残っている次の歌で、上欄に『七月二十九日』と明記されている。

 芹の葉の茂みがうへに登りゐてこれの小蟹はものたべてをり

 いま一つは、没後、机の上にあった『創作』六月号の裏表紙に赤インキで書かれていた歌である。

 酒ほしさまざらはすとて庭に出でつ庭草をぬくこの庭草を

 喜志子は昭和四十三年八月十九日に没した。八十歳であった。牧水存命中からの経済的な苦労は創作社経営をあずかって以後も絶えることがなかった。だが、それにいささかもくじけることなく、むしろそれを糧として彼女の芸術と人間性は円熟し高められていった。

 ものの味そくそくとして亡き人を偲ふおもひのしげきこのころ

 晩年の作である。

 今年は牧水生誕百周年にあたる。沼津、東京、東郷・日向・延岡で牧水の芸術と生涯をしのぶ集いがある。

                      完
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