第 88 週 平成21年8月2日(日)〜平成21年8月8日(土) 

第89週の掲載予定日・・・平成21年8月9日(日)

老松の梢
(3p目/4pの内)





 挿画 児玉悦夫

 二月の終わりになると健康もほぼ回復した。そうなると身内から湧いてくるのが旅心である。二十六日の日記に自ら『旅の空想』と題したうえで旅行日程を組んでみた。
 一、千葉平野、沼、九十九里、利根川、(これは梅雨のころか)
 二、福島に滝桜を見、帰りに(高塩訪問)日光に寄り、湯元まで行く、か、も一つ、塩原温泉にも立寄るか、
 三、長尾峠をこえ、熱海に出て、下田にゆき石廊崎に遊ぶ。
 空想を空想のままでおかないのが牧水の性癖である。この日の午後、富士人と町に出て彼が前々からねだっていた空気銃(十二円)を買ってやったついで?に、自分の旅行用の帽子、サルマタ、静岡県の五万分の一地図を買ってきた。
 そして三月四日、旅立った。朝鮮旅行以来の足だめしであった。久しぶりに真新しい草鞋をはいて庭に出た。とんとん、踏みならしてみた。やわらかい草鞋から足裏に伝わる土の感触が快かった。
 それでも独り旅は心もとない。裾野の鈴木秋灯を誘った。この日は御殿場から富士を眺めながら長尾峠を越えて箱根の木賀温泉に泊った。翌朝は大雪になった。宿の者はあやうんだが、むしろ積雪を踏みたかった。前日まる一日歩いて足に自信を持ち直していた。
 フウチヤン、タイヘンタイヘン、ケサオキテミタラオニワモヤマモマツシロニユキガツモツテイマシタ、イマドンドンフツテイマス、フウチヤンガイタライイナアトオモイマス、コレカラオダワラヘユク   トウサン
 ニ男の富士人あてに絵葉書を宿から出しておいて雪の山路を歩き出した。五日は湯ケ原泊り。六日熱海に泊って七日朝は伊東に向かった。鈴木とは此処で別れてあとは牧水一人の旅になった。長女みさきへの絵葉書。
 この宿屋のお庭のツイ下に大きな浪がよせています。昨夜、ねぼけて沼津のおうちにいるのだとおもいました。今日、トンチンだけ伊東にゆきます。   牧水 二女真木子にも一筆
 ヨンヨン、昨日、デンワをありがとう、おとうさんたちはネ、げんきで、ゆくわいに歩いています。今日、すずきさんはすそのにかへりトンチンー人で歩きます。トンチン
 七日伊東、八日富戸、九日下河津、十日湯ケ島と泊って十一日に帰宅した。その間、宿に着いた直後か出立前に喜志子、旅人ら家族全具にこまめに封書や葉書を出している。
 独り旅を行きつつ牧水の心は沼津の家族の上から離れることはなかった。元々家族思いの彼であったが、近年特にその傾向が強い。
 『齢(とし)かな』苦笑する牧水だった。

 弾んで草鞋をはいた旅だったが、帰りつくとまた元の木阿弥。ぐったり疲れていた。気分の乗った歌をと真新しいノートまで鞄にしのばせていたが空白のままで終わった。それもつい度をすごすことになる酒ゆえだった。
  『伊豆行は面白かった。が、悪い癖でよそに出たりひとの顔を見たりすると一方を過していけない。いまわたしは朝二合昼二合夕方四合締めて一升(桝目が違うと言い給うな、この液体の特質だ)が毎日のきめである。よそに出ると忽ちそのきめを破ってしまう。それが今直ぐ身体に来る』
 だからもうしばらくは何処へも行かない−と『創作』四月号の『使』に書いている。酒を怖れつつ酒から逃れることができない牧水であった。
 四月五日には二男富士人の小学校入学式に牧水自身が出向いた。真青な空に白銀の富士の頂が浮かんで見えた朝であった。
 五月一日から四日にかけて西伊豆の海岸西浦村古宇に行った。二月初めに旅行用に作らせたマントを着て得意気であった。帰りにはわざわざ千本松原の巨松の前で、マントをはおった旅姿を写真師に撮らせた。
 その後も同月十日から二泊、六月上旬に一泊の小旅行をしているが、その度に健康の衰えを自分で怖いほど感じていた。そのために牧水の生命である作歌にも力がこもらず、その頃の歌の数は極端に少ない。作っても

 妻が眼を盗みて飲める酒なれば惶て噎せ飲み鼻ゆこぼしつ

 うらかなしはしためにさへ気をおきて盗み飲む酒とわがなりにけり

 痛々しい歌であった。牧水の酒と健康を気づかう喜志子の気苦労は並たいていのものではなかった。前年の秋、船原温泉の船原ホテルで湯治中の牧水にあとで一緒になった彼女が夫の親友平賀春郊にあてた絵葉書がある。
 牧水が当時ペンを握る気力さえなかったため喜志子がしたためたものだ。
  『−主人もすっかり弱りこんなところへ来ましたものの、あまり寂しいのでしんぼう出来ず、今日で一まづ引上げ帰宅いたします。今度こそすっかり静養させなくてはならない状態にありますので、私も深い決心を以って事にのぞんでゆきます』
 牧水は絵葉書の写真の面に
  『サイヤンョ、ナニカシラヌガオレハクルシイゾョ』
 鉛筆の弱々しい片仮名文字で書いている。
 深い決心をもって臨まねばならない切迫した状態を牧水自身承知しながら”盗み酒”するはしたなさ。別の牧水がその姿を冷ややかに見て歌にしているむごさがあった。
 刻々、牧水の身と心が蝕まれていくー。
老松の梢
(4p目/4pの内)




 挿画  児玉悦夫
曇を憎む
(1p目/7pの内)




挿画 児玉悦夫

 つばくらめ飛びかひ啼けりこの朝の狂ほしきばかり重き曇に

 降るべくは降れ照るべくは照りいでよ今日の曇りはわれを狂はしむ

 玲瓏玉の如き人と言われる牧水だが、酒毒は彼の神経までいらだたせていた。殊に六月から七月にかけての梅雨期はひどかった。家族にあたることはさすがになかったが、鉛色の雲より重い心を特つ牧水のいらだちは傍の目にもうかがえた。
 七月十二日に静岡県立清見潟商業学校の校歌の作詞を頼まれていたため同地を訪れ一泊して帰ったが、その頃から特に健康がすぐれなかった。二十七日の午後、何を思ったものか、急に町から写真師を招いて撮影しようと言い出した。
 牧水お気に入りの庭の池の端て牧水、喜志子、旅人、みさき、真木子、富士人の家族六人が撮ったあと、大悟法にも声をかけた。
  『利雄さん、君と二人きりで写真を撮ったことがなかったね。ついでに一枚撮っておこうよ』
 同じように他の端で撮影させた。二枚とも牧水はしゃがんで写った。存外に写真好きだった牧水は旅先などでよく記念撮影をしているが、この日の写真が彼存命中最後の撮影になった。
 しかも、牧水最後の編集になった『創作』九月号の口絵にこの写真二枚を載せて『−暑中見舞など沢山頂いておりながら、一切御返事出来ませんでした。許して下さい。その代りというでもないが、写真を人れて置きました。ついでに利雄さんともとりました。朝晩に喧嘩のしどおしでいながら、何の因果か顔が似ている』と『便』に書いている。
 この写真を見て親友平賀春郊、節子の夫妻は不吉な予感を抱いた。
  『−若山君はやつれてしまって生々としたところがなく、旅ちゃんはうつぶいて思い込んでいる。私が折々若山君のことを案じていたのを知ってるせいか九月号を見ると先づ妻が、若山さんは大丈夫でしょうね、と私にたずねるのだった。
 そんな事をぼくにわかるものかと叱りつけたが、私と妻の思いは同じだった』。
 牧水の没後、『創作』追悼号にこの日のことを追憶している。
 前年の坪谷、延岡での撮影からこの二枚の写真と言い、何か心にひっかかるものがあるが、当時は本人も傍の人々も無論それと知るよしもなかった。むしろ牧水は  『御心配無用、医師も今年の(病気)をば極く軽く見ている。もう少し秋づいて、食欲でもついてくれれば直りましょう』
  『便』に書いて社友を安心させていた。

 旧盆過ぎの八月二十一日朝から牧水は山梨県の下部温泉に湯治に出かけた。しばらく滞在の予定で行ったのだが、夏蚕の農繁期明けの山梨、長野両県の農家の人たちが骨休めに来ていて宿は酒杯。ゆっくり静養などとんでもない状態に驚いて二泊しただけで逃げるようにして帰って来た。
 それからの毎日はほとんど敷き放しの布団に横だわって過ごした。と言ってぼんやり寝ていられる状況ではない。
 元利ともに毎月きちんきちんと払わねばならない性質の金ではなかったが、建築費などの借金がまだ一万円余りも残っている。根が律気な牧水のことだ。催促がないだけに一層気がかりだった。
 牧水には当時、選歌料や執筆料て四百円から五百円近い月収があった。当時の一流会社の重役並みの収入である。
 サラリーマンなら極めて優雅な生活が営めたはずである。だが、牧水は雑誌を主宰する”経営者”である。物いりが他から想像が出来ないほど多かった。交際費もばかにならなかった。
 同年二月二十三日の日記に『芝の高橋酒店に酒代百二十二円三十銭送る』とある。特別のことではあろうが、酒代として決して少ない金額ではない。推して知るべしだ。
 借金を返済するには定収入以外に収入の道を考えねばならなかった。揮毫行脚も北海道から朝鮮半島まで行き尽して開催すべき土地がない。あっても健康がそれを実行に移せる状態ではなかった。
 大悟法とことあるごとに相談したが、結局落ち着く所は著書を出して印税を稼ぐことだった。それは前年から構想があった。
  『山桜の歌』以降の歌をまとめて歌集を出版することで、その頃には原稿もある程度は清書され、書名も『黒松』に決まっていた。あとは出版社との交渉であった。
 だが、そのための上京はいまの牧水には不可能だった。
  『君もやられていたのかネ。小生もずっと寝込んでいる有様だ。不景気千万、お互いに元気を出そう。実はこの春、君を訪ねる予定を立てて何かでよう行かなかった。脚が立てば必ず行きます(8月27日、和田山蘭)。
  『−小生も例の神経衰弱で脚が立だなくなり、且つまた胃腸にも影響してなまぐさ一切のものをよう食べなくなり、果物と野菜と重湯と水と酒とて過しています。何とも陰気な気持て弱っています(同31日、高橋希人)。
 友人らにあてた手紙の内容より実態はもっと悪かった。代わりに九月五日大悟法が上京、改造社、岩波書店と交渉して七日深夜帰って来た。牧水は足に火傷を負っていた。

   
つづき 第89週の掲載予定日・・・平成21年8月9日(日)

曇を憎む
(2p目/7pの内)





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