第 73 週 平成21年4月19日(日)〜平成21年4月25日(土) 

第74週の掲載予定日・・・平成21年4月26日(日)

樹木とその葉
(12p目/16pの内)




 挿画 児玉悦夫

 翌二十七日は、群馬、栃木県境の金精峠に向かって出立した。今夜の泊りの大沼の番小屋までは宿の主人が案内人を世話してくれている。
 山路には馴れている牧水のことだ。案内人なしでも道に迷うことはない。と思ったが、喜志子から未知の県境を越えるのだから必ず頼むように言われていたのに従った。
 だが、それが幸いした。案内人は顔色のよくない眼付きの険しい四十男だったが、根は善良らしい。
  『これが橡、あれが桂、悪ダラ、沢胡桃、アサヒ、ハナ、ウリの木:・』
 見ゆる限り千明家の所有で、製紙会社に売り渡した立木だけで四十五万円、毎年一万円ずつ伐採して四十五年間はかかるという広大な山林の樹木の名前を道々教えてくれた。
 樹木の多くは落葉樹だが、中に楓が真紅に紅葉していたり、樅、栂、檜などの常磐木が怖いほどの黒木の山を作っていたりした。
 やがて白根火山系の火口湖が現われ、目的地の大沼に着いた。沼と山の根との間のわずかばかりの平地に檜皮ぶきの家三、四軒があった。その中の一軒から六十歳ばかりの老爺が出て来た。
 沼の番人で千明家の夫人からの紹介状を渡すと大囲炉裏がある部屋に案内された。
 丸沼にはもう一人同じ年頃の男がいた。丸沼の紅鱒の養殖状況を観察するため農商務省の水産局から派遣されている老技師だ。
 大囲炉裏のそばで熱い番茶をすすっていると、番人の老爺がぼそぼそと言う。
  『旦那は釣りはどうだね』
  『いや、子供のころから好きでね』
  『じゃあ、沼で釣ったらどうだね』
  『釣ってもいいのかね?』,
  『夕飯のおかずをどうすべえか、困っていたところだ。たくさん釣って来てもらいてえもんだ』。
 釣好きの牧水には願ってもないことだ。道具を借り、ミミズを掘って出かけた。『オレもひとつ』という案内人を伴って小舟を沼の深みに槽ぎ出した。
 糸をたれているとぐいっと引く。あげると三十a以上もある色鮮やかな紅鱒がかかっていた。牧水には生まれて初めてみる川魚であった。
 そのあとも三尾四尾と釣れる。案内人の糸には一向に音沙汰がない。湖水の冷たさに十尾釣り上げたところで舟を岸に着けたが、案内人の釣果は一尾だけ。牧水の分を三尾分けてやったら大喜びで帰って行った。
 老番人が紅鱒を料理して、牧水の土産の一升瓶をあけたところに三人の山男が人って来た。老爺の顔が明らかにゆがんだ。


 老番人の酒好きなことは昨夜の宿で聞いていた。土産の一升瓶を差し出したら『これは早々と正月だ』と、小躍りして喜んだ。そして牧水が老技師を呼ぼうとするのをとめる。二人で一升の酒を楽しむ心づもりらしい。
 それが、同じ千明家で働く木挽きたち三人が遅くなったので泊めてくれーと言う。彼らにも折角の酒を注がねばなるまい。思わぬ闖人者に渋い顔をしたのだった。
 牧水には、老爺の迷惑も、酒のにおいにのどを鳴らしている木挽きたちの期待もわかる。
 『ここに五升もあったらなあ』と思ったが、奥山では仕方がない。
  『爺さんよ。この人たちにも一杯やろうよ。お前さんとは明日一緒に湯元まで降りて、そこに泊って腹いっぱい飲み食いするから』。
 とっさの牧水の機転に老爺も木挽きたちも大囲炉裏のそばに笑い転げた。酔いを支配するのは飲む酒の量に限らない。その夜は、僅か一升の酒に五人がほとほと酔ってしまった。
  『さあ、寝よう』
 牧水がそう言って小用をたしに小屋の外に出た。月が冴えた姿を沼の水面に映していた。
 翌朝は、前夜の約束通り老番人を連れて湯元に降りることにした。番小屋を出ると隣の家の戸があいて老技師が顔を出した。
  『−今夜は帰らんといかんぞ、いいか』。 言いすてて戸を閉じた。
 昨日と同じように針葉樹の黒木の密林を辿るうちに群馬栃木県境の境界石が建っている平地に出た。あたりの樹木には葉一枚なかった。そして冬枯れの枝の先々に薄あかね色の木の芽が目についた。
 深山の樹木は落葉するとすぐに後の新芽を宿し、永い冬を雪に埋もれて過したあと、雪の消えるのを待って萌え出ずるのだ。
 牧水は境界石の傍の落葉の上に腰をおろした。煙草をくゆらせていると、何やら老爺が浮かぬ顔をしている。昨夜から今朝にかけての元気がない。
  『どうした。二日酔かい』
  『いや、とんでもねえ。だが、旦那。折角だけどオレは湯元に行くのはよすべえ』
  『急にまた、なんでだね』
  『湯元まで行って引き返す頃には道の霜柱が溶けていて滑る。酔って帰るのがおっかねえだ』
  『だから今夜泊ればいいんだよ』。
  『やっぱりそうはいかねえ。いま出がけにああ言うとりましたから』
 くぐもった声だった。牧水もそれもそうだと思った。財布から紙幣を取り出して『これで村に降りたときに酒を買って−』と渡した。老番人は押しいただいた。
 牧水は後振り返らず急ぎ足で山を降った。
樹木とその葉
(13p目/16pの内)




 挿画  児玉悦夫
樹木とその葉
(14p目/16pの内)




挿画 児玉悦夫

 老番人と別れたのは金精峠(こんせいとうげ)の絶頂だった。真向かいに円錐形のなだらかな山容を見せているのが男体山である。標高二、四八四b、蒼空に突起状の最高峰をきわ立たせている。
 その右手にそびえ立つのが二重式火山白根山だ。標高三五五七b。前白根、坐禅山の外輪山を従え、山頂群の間に五色沼、阿弥陀ケ池、血ノ池地獄などの火口湖かおる。
 牧水は、金精峠の絶頂のすぐ手前で道路わきの草むらからむくむくと湧き出る水を見た。不審に思って老番人に聞くと 『旦那、この湧き水が菅沼、丸沼、大尻沼の源になるんでさあ』。
  『それじゃ、噴き上げている水が山を降って片品川や大利根川になるんだ』。
 夢にまで見た。大利根川のみなもとをいま眼前にしている。牧水は、たとえようのない感動に打たれた。いきなりその草むらに踏み込むと、手の切れるような冷水を掌に幾度も幾度もすくって顔を洗い、頭を洗い、そして満腹するまでむさぼり飲んだ。
 みなかみをたずねたずねてその極点にいま達したのである。
 老番人との別れは心残りであった。だが、大利根の水源をさぐりあてた喜びはそれを上回るものがあった。濡れた草鞋で枯れ落葉を踏みしめつつ、今朝出発した丸沼から湯元まで約十二`の山路を下って行くー。
 はるか峠の根方あたりで白銀に輝やいているのは標高一五〇〇bの高所にある湯の湖である。前白根山の溶岩が湯川の上流をせき止めた湖で水深僅かに十二、三b。
 湖の中から中禅寺温泉の源泉が湧出しているが、牧水の今夜の泊りは湖の北岸の湯元温泉である。牧水は足早になっていた。
 日光湯元温泉の板屋旅館に正午きっかり着いた。老番人から聞いてきた宿だ。『一泊だけだ』と言うと、女中が一瞬口ごもったがそれでも愛想よく階下の六畳の部屋に通してくれた。心配した上州四万温泉の二の舞いはなかった。
 すぐに案内された湯殿は新築で窓を大きくとっていた。枯れ葉色に薄濁りした湯に思い切り手足を伸ばした。十四日間、信州の北佐久を振り出しに上州の山や谷を歩きづめに歩いてようやくここまで辿り着いた。あとは中禅寺、日光と平坦な道程だ。
 湯槽でふとい吐息をついた。そしてざぶり、両の掌で湯をすくって顔を洗った。
  『−豚鍋を煮ながらいま一杯始めたところだ。此処の湯はのぼせ湯で酒には少し具合が悪いように思う。杯がちと重い。洋燈のしんがじいと鳴るのを聞いていると眼がとじれる。      喜志子様          牧水』

 豚鍋をさかなに程よく酔って床についたのだが、階下の部屋でさえ揺さぶる風に目覚めて眠れなかった。二十九日は中禅寺温泉泊り。昼までゆっくりするつもりでいたが、あいにく日曜日で東京から団体客が来ると言う。女中たちが早朝から掃除をはしめた。
 居たたまれず朝食もそこそこに宿を出た。中禅寺温泉に向かう湯の湖の岸辺の道を歩いていくと、湖の対岸の黒木山の上に立つ白根山の頂上に雪が輝やいていた。
 立ち寄った煙草屋の老婆が言った。
  『お山は四度目の雪でございます』。
 道理で昨夜は寒かった。

 裏山に雪の来ぬると湖岸の百木のもみぢ散りいそぐかも

 湯の湖を過ぎると、戦場ケ原に出た。男体山の大蛇と、赤城山の大ムカデとが領地争いをした古戦場の神話を伝える湿原だ。その四方を常磐木の黒木の山が囲んでいる。
 渓谷に沿ってしばらく行くと中禅寺湖に出た。周囲二十一`・透明度一五b、清澄な山上湖だ。黒木と紅葉が華美な油絵の額縁のように湖を飾っていた。
 その景色に見とれて思わぬ時間を過ごした。宿泊予定の米屋旅館に草鞋をぬいだのは午後三時近かった。この旅館は牧水の友人の叔父の経営である。
 二階の部屋に通された。障子を開けると男体山があった。頂上には、途中詣でてきた荒(ふたら)山神社の奥の院がある。ここは、江戸時代からの男体山信仰登山者の基地である。山と湖のたたずまいが神々しい。
 その晩は宿の若主人、つまり牧水の友人の従弟の好意で豪華な夕食になった。
 翌日は男体山の溶岩が創出した華厳滝を見物した。高さ約百b、幅十bの主瀑の両側に十二の小滝がある。滝は淡いエメラルドの水煙をあげ、地軸をゆるがす轟音をー帯にひびかけていた。
 牧水は、華厳滝まで送ってくれた若主人と別れて幾十ものカーブと急坂で有名な『いろは坂』を降りて行き電車の終点馬返しに出た 打ち合わせ通りに古い友人斎藤雄吉が待っていた。彼とは七、八年ぶりの再会。牧水には見覚えがあったが、斎藤は観光客の中の牧水の見分けがつかなかった。
  『いやあ、まさかそんな風で来ようとは思いませんでしたからねえ』。
 牧水は草鞋脚絆尻端折。半月ほどの山歩きで荷物をかつぐ天秤棒代わりの洋傘が当たる羽織の肩のあたりが破れて綿が出ている。
 斎藤があきれて眺める前に、東京者らしい若者たちがうさんくさげに見て通っていた。
 二人はすぐ電車に乗った。日光の彼の家に今夜は厄介になることになっている。

   
つづき 第74週の掲載予定日・・・平成21年4月26日(日)

樹木とその葉
(15p目/16pの内)





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