第 71 週 平成21年4月5日(日)〜平成21年4月11日(土) 

第72週の掲載予定日・・・平成21年4月12日(日)

樹木とその葉
(4p目/16pの内)




 挿画 児玉悦夫

 草津温泉は白根山の東斜面、海抜一、一七〇bからー、二〇〇bの高所にある。雨で所々落石がある急坂の道を乗合自動車はあえぎあえぎ上って行った。山国を知らぬ門林は、興味と恐怖とを半々に無言で窓外に眼を走らせていた。
 草津温泉では一井旅館に宿をとった。この旅館には大正九年五月中旬、群馬県の川原湯温泉に滞在の後、草津から渋峠を越えて長野県に入り、木曽、名古屋と回って帰京した旅行中に泊っている。
 部屋で旅装を解き丹前に着かえていると、宿の前の時間湯から名物の湯揉みの高音と歌声が聞こえてきた。
 牧水は知っていたが、初めての門林は驚いている。彼を促して前の浴場に入ったら三、四十人の浴客が裸体で浴槽を囲み、てんでに幅三十a、長さ二b近い板を持って湯を揉んでいる。歌はその調子を合わせるためで一人の歌に皆が和してうたっている。
 草津温泉は、お釈迦様でも治せぬ恋の患い以外は万病に効くそうだが、湯温が滅法に高い。四八〜六六度と言うが、生身には沸騰点近い熱湯に感じられる。
 湯揉みはその温度をさげるための知恵で、湯揉みも入浴も湯長の合図で一斉に行われる。難病に苦しむ湯治客ばかりだからその様子は真剣そのもの。初めての者には鬼気迫るものさえあった。

 たぎり沸くいで湯のたぎりしづめむと病人(やまうど)つどい揉めりその湯を

 湯を揉むとうたへる唄は病人がいのちをかけしひとすじの唄

 翌十九日は快晴になった。昨日の雨が残っていれば馬を雇って沢渡温泉に行くつもりだったが、思わぬ上天気に恵まれて真新しい草鞋をはいた。
 牧水はこの草鞋を好んだ。九文半の足に合う草鞋のひもを程よくしめて大地に立つと、五体が引き締まる思いがする。
 宿の土間に降り立ってとんとんと足を踏んでみる。固い叩上(たたき)でさえ弾むような感触だ。
 草津温泉は、方六里にわたるという広大な浅間山の裾野六里ケ原に対面している。広さはそれほどにないが、傾斜は急である。その斜面をとろとろと登ると今度は降りになる。
 純白な煙を青い空に吐いている浅間の頂上が見えかくれする雑木林の中の急坂を小走りに降りて行った。
 生須、小雨という寂しい名前の村を過ぎて紅葉の林と枯草の高原をひた急ぐうちに一筋だった野中の道が左右に分かれている。
 古びた道標に『右沢渡温泉道、左花敷温泉道』の文字が読めた。

 道標の文字を見て、沢渡温泉に直行のはずの牧水の気持が揺らいだ。
 大正九年五月中旬、草津温泉に泊まった牧水は雪が膝を没する渋峠を越えて渋温泉に行った。その時、案内人が白根山の裾野の一角を指さして言ったのを覚えている。
  『旦那、あの高い崖の真下の岩のくぼみにも温泉が湧いているんですよ。草津と違ってね。湯が澄んでいるから、湯鏡に崖に咲くつつじなどの花が映る。まるで、温泉の底に花むしろを敷いたようだから゛花敷温泉〃と言ってますがね』
 あんな所に温泉があって、人が往んでいるんだろうか。牧水は好奇心を抱いた。心を残しながら渋温泉への道を急いだものだった。
  『ほほう。あの崖の下の温泉へはこの道を行くのか−』。
 いったんは沢渡に通ずる右の道を歩きかけたが、思い切って前を行く門林に声をかけた。
  『門林君、ひとつ左の道を行ってみようじゃないか。そして今夜は花敷温泉に泊まろう』 不審気な門林に数年前の思い出を語った。彼も『花敷温泉』の名のいわれをゆかしいものと思ったらしい。
  『先生、ぜひその湯の底に花が見えるという温泉に行きましょう』
  『うん、今の時期じゃよくて紅葉温泉、悪ければ枯葉温泉かも知れないがね』
 軽口をたたきながらとって返して左の道を降って行った。道標には二里半とあったが、行けども行けども芒の野と雑木林の道は果てしない。思いつきの予定変更が悔やまれるほど道は遠かった。
 途中、二十戸ばかりの村落二つを過ぎた。その一つに小学校があり、日暮れ近い運動場で老教師が二十人ばかりの児童に体操の授業をしていた。

 先生の一途なるさまもなみだなれ家十ばかりなる村の学校に

 先生の頭の禿もたふとけれ此処に死なむと教ふるならめ

 花敷温泉は家二、三軒があるだけの寂しい山の湯であった。その一軒の湯宿に宿を頼みさっそく温泉にひたった。
 温泉は崖の下にニカ所あった。一方は茅ぶきの屋根があったが一方にはない。屋根のない方の湯に身体を沈めた。
 崖から潅木が枝を張っていた。散り残りの紅葉がかすかな風にはらはらと湯の面に散った。それを若い門林は掌にすくった。青く澄んだ湯まで染むような鮮烈な紅色だった。

 樫鳥が踏みこぼす紅葉くれなゐに透きてぞ散り来わが見てあれば

 翌朝はうす暗いうちに出立した。崖と道にまばらな雪があった。昨夜降ったものだ。
樹木とその葉
(5p目/16pの内)




 挿画  児玉悦夫
樹木とその葉
(6p目/16pの内)




挿画 児玉悦夫

  昨日来た道をまた引き返して分かれ道に出た。今度は右に折れて沢渡温泉に向かった。浅間や白根など遠い山々の峰が朝日を受けて白銀に輝やいている。
 やがて立枯れの楢の林が続く暮坂峠に出た。峠を越えて約十`正午近くに沢渡温泉に着き、正栄館という宿の三階に上った。昼食を注文してから二人で相談した。
 昨夕、花敷温泉に寄り道したので丸半日予定が狂った。このまま沢渡温泉に泊り込むには陽が高すぎるわけだ。結局、あと十四、五`先の四万温泉まで行くことになった。
 馬車で四万温泉に着くと、そこにいた宿の客引らしい男二人に誘われて田村旅館という大きい構えの宿に行った。
 玄関に番頭らしい男が出迎えていた。
  『お客さん、どのくらいご滞在で』
 と聞く。『一泊だけだ』と答えると、客引きと三人で顔を見合わせて苦笑した。
  『一泊だとよ。何の何番に案内しな』
 突っけんどんに言って、もう次の客に同じ質問をしている。その客が『滞在だ』と答えると、追従笑いをしながら左手の渓谷に面した新築の棟に案内して行った。
 牧水らには残った男が、『どうぞ』と反対側の古びた建物に連れて行こうとする。
  『見物に来だのだから出来るなら見晴らしのいい部屋に通してほしい』。
  『へ、承知しました』。
 口では神妙に答えたが、通されたのは小学生の修学旅行団体でも泊めそうな幾間か続きの一室。しかも間の襖も満足にしまらないようだ。門林が口をとがらして言った。
  『先生、移りましょう。馬車を降りた所にいい宿屋があったようです』。
 牧水も不快だった。だが、宿を変えてまた同じ目にあったらー層みじめだ。
  『よそうよ。これが土地の風かもしれないから−』
 なだめて湯に入った。この分では、と気がかりだったので夕食には宿の膳の物のほか二品ほどつけるように頼み、酒も徳利で二、三本予め注文しておいた。
 十五、六歳の少年が岡持で二品ずつ料理を持ってきた。そして、宿料とは別だから二品分の代を払ってくれと手を出している。
 団体部屋に入れられたのはー泊きりのうえにふところまであやしまれたあげくらしい。
 翌朝、出がける時にも宿の者は声ひとつかけなかった。牧水は宿に泊まればいくら財布が乏しくてもいくばくかのチップを置いてきた。しかし、この宿ばかりはその気になれなかった。
 群馬県吾妻郡中之条町大字四万の田村旅館は旅の歌人牧水の旅情を痛く傷つけた。

  『よく四万々々と言うもんだから、四万先生すっかり草津、伊香保と肩を並べたつもりになって鼻息が荒いんだよ。まあ、えげつない成金気分だね』
 牧水と門林は田村旅館の不遇から四万温泉に八つ当たり。散々悪口を言いながら中之条に向かった。腹の中のわだかまりを吐き出してしまえばすっきりする。
  『それでも沢渡に越える暮坂峠というのは名の通りしみじみとした峠だったねえ』。
 花敷温泉を未明に出たので時間は十分にあった。山路に散り敷く落葉の中から栗や橡(とち)の実が顔を出しているのを拾いながら歩いて来た。

 乾きたる
 落葉のなかに栗の実を
 湿りたる
 朽葉がしたに橡の実を
 とりどりに
 拾ふともなく拾ひもちて
 今日の山路を越えて来ぬ

 長かりしけふの山路
 楽しかりしけふの山路
 残りたる紅葉は照りて
 餌に餓うる鷹もぞ啼きし

 上野の草津の湯より
 沢渡の湯に越ゆる路
 名も寂し暮坂峠

 牧水は、昨日と同じような山路を辿りながらこの詩を口ずさんでいた。その詩に和するように一足一足落葉がかわいた音を立てた。
 中之条には十一時前に着いた。駅に行くと折よく電車が出るところだった。電車は吾妻川に沿って走り一時間ほどで渋川駅に着いた。
 二人はここで別れて牧水は沼田行き、門林は東京行きの汽車に乗る。それぞれの発車時刻を確かめておいて駅前の小料理屋に寄った。
 かしわとうどんをさかなに別盃を挙げた。
  『無理を言ってすまなかったねえ』
  『とんでもありません。楽しい旅をさせていただきました。四万温泉を除けば−』
 その実、もう田村旅館の不愉快も『それも旅の一興』と心になかった。
 午後三時、沼田行きの電車が十分早かった。駅で手を握って別れた。渋川から沼田まで電車は利根川に沿って走った。二度、停電して止まったため沼田駅に着いたのは七時半。暗いうえに指先が痛むほど冷え込んでいた。
 駅前の郵便局に行って留置の郵便物を受け取ると、局員が小窓から顔をのぞかせて
  『今夜のお泊りは−』と聞く。不審に思ったが『嗚滝館てす』と答えておいた。

   
つづき 第72週の掲載予定日・・・平成21年4月12日(日)
樹木とその葉
(7p目/16pの内)





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