第 52 週 平成20年11月23日(日)〜平成20年11月29日(土) 

第53週の掲載予定日・・・平成20年11月30日(日)

結   婚
(6p目/8pの内)




 挿画 児玉悦夫
 塩尻駅から乗車した牧水は上諏訪駅で途中下車して旅館松川屋に泊った。とくりで四、五本はど酒を飲んだあと、喜志子あてに手紙を書いた。
 『−早速御承知下さったことを深く深く感謝します。偶然のようで決して偶然でない。我等ふたりのために今日は本当に忘れ難い大切な日であるのです。私は何かは知らず、深い深い感謝の念が湧いて仕様がないのです。恐らくあなたにも斯くあるだろうと信じます。
 今までは準備の日、過去の時、我らが本当に生まれるのは実に今日からだと存じます。あなたはそうは思いませんか。
 あのかわいらしいお妹さんを怨むのでは決してない。けれども、そうと察していながら、濁りで来て下さらなかったあなたをうらめしく思います。
 いつごろ東京においでになります。早くお目にかかりたいと存じます。
 汽車の中から、湯槽の中から、ああだこうだと思っていましたが、いざとなると、何も筆にのりません。のせたくもありません。このまま黙って独りで思います。 つい目の前においでるようにもあり、こう手紙を書いているのに気がつけば、極めて遠き人のようにも思われます。鳴呼、四月二日、さようなら、あなたの夢の平安を祈ります。
 四月二日、午後九時半、若山牧水』
 この手紙にはもう一通同封してあった。それには小枝子との悲恋の始終とそれに伴って起きた煩悶。病気を患っていることなどを大胆率直に告白していた。 常識的には極力秘めておきたい事柄であった。だが牧水は、生涯の伴侶と思い定めた喜志子に赤裸々に打ち明けた。
 それは、牧水の喜志子への愛が互いに一点のかげりさえ許さぬ真剣なものであることを示すものであった。
 同時に、これまでの自堕落な生活態度から脱却して新しく生まれかわる彼の決意を表明するものでもあった。
 分厚い手紙を手にした喜志子はすぐに封を切った。読み進むうちに涙があふれてきて文字がゆがんだ。
 ことに過去の悲恋や乱れた生活ぶりをあからさまにした告白に感動した。知り合う前のことであっても無垢であって欲しい。愛する相手に対する願いは男女とも変わらない。
 喜志子も同じである。だが、それを隠そうとしない牧水に、男らしさと愛の深さを思った。ふるえるほどの喜びを感じた。
 彼女はその夜、ちゅうちょなく両親に牧水からの求婚を話した。そのことを予感していたようすの二人は普通の手順を望んだだけで結婚そのものに反対はしなかった。
    雪のこる諏訪山越えて甲斐の国のさびしき旅に見し桜かな

 上諏訪に一泊した牧水は四月三日東京に帰り着いた。上諏訪駅を出る朝はとても春とは思えぬ大雪だった。それが山梨県側に越えると、山の峰々は銀一色ながら里では桜が真盛りだった。東京では飾り立てた花見電車が鈴なりの客を運んでいた。
 牧水は当座の宿泊先として雑誌『自然』の発行に協力してくれる文華堂書店主人の郡山幸男方に落ちついた。彼の住居は市外巣鴨村にあった。
 帰京すると『自然』創刊号の準備が待っていた。原稿集めのために詩歌人をたずねて回る多忙の日が続いた。
 その間、牧水と喜志子の間でたびたび長文の手紙の往来があった。いよいよ二人の相思う心はつのる一方だが、牧水は喜志子の両親に正式に結婚の申し込みをしない。
 それどころか、太田水穂が『自分たちの口から話してみようか』と申し出たのも断わった。自分なりに結婚に対する理想があるからというのが理由だった。
 そして四月二十七日の手紙で、喜志子に無理なことを言ってやった。
 『私は公然と結婚することを好まない。目下の色々の境遇からあなたと二人きりで、日蔭者の生活を送りたいと望んでいるのです。
 私はあなたの背後にあなたに関係した一切の者の存在することを厭う。それは嫉妬の心持もよほど含まれていよう(私は非常に嫉妬深い性だ)。それが私共二人の生を強固にし、濃密にする方法と思う。
 直接に言えば、親をお棄てなさい、兄弟をお棄てなさい。たった一人のあなたになりなさいーと言うのです』
 家の者に黙って単身、東京の牧水の胸に飛び込んでくる破壊的行動をとって欲しい−と訴えている。
 喜志子は、牧水からの求婚を両親に打ちあけたさい『世間並みの手順を踏むよう』念を押されている。地方の旧家に育った彼女としてもそれを願っていた。
 牧水の気持もわかる。だからと言って両親にいくら説いても到底許してもらえる相談ではない。
 迷いに迷った。けれどもこの人に賭ける。そう決心した彼女の選ぶ道は一つしかなかった。家族には無断で東京に行くことだった。
 翌日にはその決心を述べ、上京のための費用を送ってくれるよう牧水に手紙を出した。
 三十日にはその手紙が牧水のもとに届いた。決心はうれしい。だが、牧水にその金があるはずがない。あわてて『上京の日はもっと余裕をもって−』と手紙を出す始末だった。 
結   婚
(7p目/8pの内)




 挿画  児玉悦夫
結   婚
(8p目/8pの内)




挿画 児玉悦夫
 喜志子は五月四日の朝、広丘村の実家を出た。松本に嫁いでいる姉を訪ねると両親を偽った。恋は旧家育ちの彼女をも大胆にした。
 途中、上田に寄ったので東京に着いたのは五日。荷物を置いたままにしてあった新宿町の森本酒店の二階に落ちついた。両親や兄夫婦に無断で家を出たのだから着かえの着物一枚も持たない。かけ値なしの無一物だった。
 四、五日して牧水もこの二階の十畳の部屋に移ってきた。新婚家庭らしい華やいだ物は何一つないガランとした一間で、念願の夫婦二人きりの新家庭が営まれることになった。
 このことは、太田水穂ら数人に知らせただけで、他には全く連絡しなかった。坪谷の立蔵、マキにも知らせなかった。
 ただ、喜志子の家族や親族にはその間の事情を弁明しておかねばならない。折角、結婚を許しているのに、だれにも告げずに家出同様にして上京した。喜志子に対する怒りとそう仕向けたであろう牧水への不信感が極度に達している。
 五月十三日、喜志子の姉の夫になる松本の窪田誠に手紙を出して理解を求めた。
 『−今回、お許しをも請い得ずして義妹喜志子と結婚しました。いかばかりかお驚き、ご立腹かとひとえに恐縮に存じます。お詫びを申しますにもその勇気がございません。たたうちすてておくに耐えかねてこのお知らせのみ致す次第です。
 此際、申しわけがましきことをば一切致したくございません。ただ二言申しあげておきたいと思いますのは、いわゆる自由結婚とかいうたぐいのものでは断じてないということでございます。
 私共両人、いろいろ考えぬいたすえにこの外に手段もなく、これが最上の道と固い自信、信念の上にこの事を行ったのです。手段がないと申しますのは私の目下の境遇上実際そうなのです。
 両人ともそう考えのない、無法なことをなしうる齢でも性格でもありません。充分の責任と自信とを自覚して、沈着に実行したことでございます。
 他日必ず我等二人のために歓んで頂く時の来ることを固く信じているのでございます』
 牧水の真情がこの手紙によって広丘村の家族や親族に伝わった。二人に対する怒りと不信感もおのずと氷解した。
 その頃、冬の長い信濃の山野も初夏の訪れを人に告げていた。
 二人の新婚生活もこれでようやく順調に滑り出すかに見えた。だが、牧水は新妻とむつみあう時間さえ思うにまかせぬ境遇だった。
 雑誌『自然』創刊号を世に出すための金策に早朝から深夜までかけずり回っていた。 
 雑誌『自然』創刊号は五月初めには刷り上がっていた。だが、印刷代の支払いができないため印刷所が押さえていて渡さない。
 このため牧水は一日足を棒にして金策に回った。そして不首尾に終わったあげくやけ酒をあふって新妻のもとに帰る夜もあった。
 金が欲しいばかりに『路上』以後の歌二百首ばかりに、喜志子のこれまでの歌百首ほどを加えて歌集を出すことをもくろみ、東雲堂の西村に手紙を出した。 歌集は『死か芸術』か、青木繁の絵を二、三枚入れて代価六、七十銭ではどうだろう。その稿料として六十円はど欲しいと申し入れた。
 その稿料ですでに出来上っている『自然』創刊号を出す。さらに第二号として『石川啄木追悼号』を出す計画だ、と付け加えた。
 啄木は、牧水が信濃の旅を終えて帰京して間もない四月十三日朝、病死していた。
 牧水は、十日に太田水穂に喜志子との縁談の首尾を報告した翌日、小石川久堅町の借家に住んでいた啄木の病床を見舞った。
 啄木が寝ついてから二年余になる。もはや口も満足にきけぬほど衰弱しきっていた。
 日頃は気が強く、ぐちひとつ言わぬ啄木が、せき込むセキの合い間に一語々々苦悩の数々を訴えた。
 『−若山君、僕はどうしても死にたくない。僕は死ぬのでなく殺されるのだ。飲むべき薬さえ飲んだら、死にはせぬ』。
 その薬を買う金がない。薬代どころか家族の生活費にも事欠く。『一握の砂』以後の歌をまとめて金にしてくれないか−。
 啄木は牧水にすがりつくように訴える。光のにぷい両の眼に涙があふれていた。
 牧水は逃がれるようにその家を出た。薬を買ってやりたいが彼とて所持金はない。友人幾人かをたずねて歩いたがどこもあいにく不在だった。
 翌日の未明、土岐哀果をたずねて、これから東雲堂に行って啄木の歌集出版について西村と話し合ってみてくれと頼んだ。
 土岐はその足で東雲堂に行き、いくぱくかの金を作って小石川の石川家に届けてやった。
 土岐がすでに力というものが感じられない啄木の手に僅かばかりの金が入った封筒を握らせた。啄木は声にならぬ声をあげて泣いた。
 翌十三日早朝、まだ牧水が寝ているところに啄木の妻節子から使いが来た。案じたとおり『危篤』の知らせであった。
 かけつけると、啄木の眼はどんより曇って光りが消えていた。枕元には節子と一人の紳士がいた。紹介されて啄木の旧友“て言語学者の金田一京助と知った。
 『石川君−』。牧水が声をかけた。

   
つづき 第53週の掲載予定日・・・平成20年11月30日(日)
おとろへはてて
(1p目/3pの内)




挿画 児玉悦夫
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