第 43 週 平成20年9月21日(日)〜平成20年月27日(土) 

第44週の掲載予定日・・・平成20年9月28日(日)

決   意
(3p目/4pの内)




 挿画 児玉悦夫
  磯の日の思い出の女性日高ひでが急死した。
 ひでは十月中旬、病気を理由に東京を離れて郷里に帰った。足元から鳥が飛び立つようなあわただしい出立だった。
 知らせをうけて牧水は新橋駅頭まで彼女を見送った。
 他に同期生らしい若い女性三、四人が姿を見せただけの寂しい別離であった。秋も深まり東京の街頭を吹き抜ける風が肌寒い夜であった。
 そのまま細島に直行したものと思っていたら大阪の消し印がある手紙が届いた。
 『咋日は御見送り下されありがたく存じ候。あの時はろくろく御礼も申しのべず失礼致し候。あの新橋の別れほど悲しかりしは今までに御ざなく、神奈川までの名残りの惜しかりしこと、東京にはみれんはなく候へども別れし人々に又の逢瀬を期することが出来ぬやうにのみ存ぜられ、汽車のまどにうつぶして泣き申し候。
 当地はよほど暖く候間、足のいたみは少なからずよろしき様に候』。
 帰途、病気が重くなったのか大阪の病院に急拠入院した。病院は緒方産婦人科だった。
 その後間もなく、彼女は入院先で死亡した。
 十一月十八日、牧水は平賀にその間の事情を伝える手紙を出している。
 『先日の手紙であの人の帰郷の由を報じたろう。その途中大阪でわるくなって夢のやうに消えてしまった。死んでしまった。
 大阪からの手紙が彼女の絶筆になった。
 君、僕はいま君に彼女の死期の無惨なりしことを語るを得ぬ。彼女は普通の死ではなかったのだ。自殺ではない。勿論他殺ではない。が、普通の死ではない。僕は彼女が今はのうわ言を想ふに忍びぬ』
 ひでは、三十九年夏に細島で初めて会ったあと、その年の暮れには牧水の下宿をたずねている。
 彼女はそのおりに近くある男性と婚約することになる、と打ち明けた。はじらいのうちにもうれしさをかくしきれぬ風情であった。
 ところが、翌年五月ごろには事情が一変していた。婚約までしなから相手が心変わりして破談になったと言う。牧水に事情を訴えながら泣きふしてしまった。  牧水には慰めようのない取り乱しようだった。
 彼女は、細島の大阪商船の荷扱い問屋紀の国屋の四世日高猪兵衛の長女。京都の有名女学校を経て目白の女子大に進学していた。
 文芸、外国語に秀れた才媛であった。
 恵まれた人生を約束されていたはずの彼女の突然の死。身近な女性だけに人の運命の苛酷さを、牧水は痛烈に思い知らされた。
 牧水は、翌四十一年の『新声』二月号に故日高ひでが遺した短歌二十四首を紹介文を付けて掲載した。

 春さめのころを病みつつ人恋ふるこころかへりぬ昔のさまに

 死をおもふ日は数あれどわれに泣く母をし見れば死にも得ぬかな

 常夏のふるさと恋し母恋し潮鳴りたかきわが家こひしき

 常夏の国、潮鳴り高き細島の紀の国屋に帰りつかぬまま数え二十四歳の生涯を閉じた。
 牧水は彼女のために鎮魂歌を詠んでいる。

 短かりし君がいのちのなかに見ゆきはまり知らぬ清きさびしさ

 吾木香すすきかるかや秋草のさびしききはみ君におくらむ。

 日高家の墓地は、細島港一帯からお倉、お金ケ浜を眼下に、はるか、紀州、四国につらなる太平洋を一望にする米の山にある。
 『日高秀子之墓』はそこに寂しく建つ。
 牧水、春郊、ひでの磯の日の半日の思い出が残る御鉾ケ浦に昭和三十六年七月二日、牧水歌碑が除幕された。郷土史家松田仙峡の呼びかけによるものだ。

 ふるさとのお秀が墓に草枯れむ海にむかへる彼の岡の上に

 御鉾ケ浦は細島商港の入り口になる。一時期は公園だった。夏は遊泳客でにぎわった。いまは歌碑すら草茫茫の中である。
 だが、さすがに元公園の眺望は失われていない。ひでも牧水も乗船した大阪商船の汽船が通った水路が真向かいに広けている。
 歌碑の傍に老松がある。四季を通じて海からの風が、松の梢で折々の調べを聞かせてくれる。それも変わらない。
 いま一人の女性は園田小枝子−。牧水が直井と一緒に住む牛込原町の専念寺の離室に彼女の姿が度々見られるようになった。
 小枝子の神戸の叔父赤坂吉六の三男、つまり従弟にあたる赤坂庸三が、前年ごろから上京して苦学していた。
 小枝子が上京すると、彼女が下宿している家に移って一緒に住んでいた。   離室を訪れるのは彼女ひとりのこともあれば、庸三を伴っていることもあった。 根が親切な牧水だ。二人を何くれとなく世話をし、時にはなけなしの財布をはたいて豚カツをご馳走することもあった。
 そんな牧水に小枝子はもちろん、庸三もよくなつき尊敬もしていた。
 牧水と彼女ら二人の仲は急速に親密の度合いをましていった。
 この年も暮れて十二月二十日から冬休みに入った。牧水は小枝子、庸三を伴って二十七日の朝、霊岸島から館山行きの船に乗った。
決   意
(4p目/4pの内)




 挿画  児玉悦夫
小 枝 子
(1p目/19pの内)



挿画 児玉悦夫
  牧水は園田小枝子、赤坂庸三と共に房総半島の南端近くの千葉県安房郡白浜町の根本海岸の家で四十年の暮れから四十一年新春にかけて十日余を過ごすことになった。
 彼にとって四十年は、人事面でも多事繁忙の年であった。また一方では、歌、小説など多くの作品を発表、拠りどころである『新声』の中堅としてだけではなく一般文壇でもようやく注目される存在になった年でもある。
 実り豊かな一年になった。
 この年、牧水が『新声』に発表した歌は、『幾山河−』(八月号)、『白鳥は−』(十二月号)など合わせて二百六十首に達した。
 このほか四十一年六月に創刊されたばかりの月刊文芸誌『詩人』(編集兼発行人・河井酔名一に歌四十余首を出している。
 また十二月には小説二篇が活字になった。一篇は、夏休み中の見聞を小説化したもので『姉妹』。『新声』に発表した。
 いま一篇は『一家』で、これは月刊雑誌『東亜の光』に掲載された。この雑誌は東大教授井上哲次郎が、日露戦争直後の青年たちの思想の混乱、煩悶を知、情、意の二面から救済する目的で三十九年九月に創刊した。
 このため、内容も人文、社会、自然科学の全領域に門戸を聞いている。また井上の関係で執筆者も東大出身者が主流になっていた。
 牧水の小説は尾上柴舟の推薦で掲載されたもので、その後、柴舟門下の正富汪洋、前田夕暮の作品も登場する。
 この雑誌は、教化、啓蒙の雑誌として知識人や学生たちに好評で、昭和四年四月号まで続刊した。執筆者も森鴎外、幸田露伴、柴舟、佐佐木信綱、上田敏、生田春月、鈴木三重吉、内田百聞とそうそうたる文学者が名を連ね、芥川竜之介も『我鬼句抄』十句をのせた。その中に『暁咳の頬美しや冬帽子』がある。
 牧水は三十枚程度の小説『一家』で原稿料十円をもらった。これまでにも万朝報、読売新聞から多くて五円ほどもらっている。だが、それは歌壇の懸賞金で『原稿料』としてもらったのはこれが初めてだった。
 大枚十円も、柴舟、汪洋、夕暮ら友人たちとの一夜の祝宴できれいになくなってアシが出たのは、懸賞金と変わりはないが−。
 美しい女性とその従弟を伴って牧水が泊った家は旅館というのではなく、いまでいう民宿だった。村では家号を『浜の小平』と呼び、根本の海岸一帯を見おろす小高い丘の上にあ
った。
 『房州に在ること旬日、海の香雲の姿涛の声、つかれし全身に満ちわたれるを覚ゆ、キンガシンネン/。海はわがために魂のふるさとなり、みなもとなり』
 小枝子を傍において平賀に賀状をしたためた。
 根本海岸の滞在期間中にこれまであった牧水と小枝子との間の垣根はー切なくなった。
 庸三の存在にはさすがに気を使った。思いのまま奔放に振る舞うことはできなかった。だが、恋は男女をかしこくするものだ。
 彼にかくれたしのびやかな恋であったが、それだけにいっそう激しく燃えた。  心身ともにしっかり結びついて二人は東京に帰ってきた。

 君を得ぬいよいよ海の涯なきに白帆を上げぬ何のなみだぞ

 千代八千代棄てたまふなと言ひすててつとわが手枕(ま)きはや睡るかな

 涙さびし夢も見ぬげにやすらかに寝みだれ姿われに添ふ見て

 専念寺の離室に帰って根本海岸での小枝子の明け暮れを詠んだものだ。中国から豊後路、さらに南日向でも小枝子をしのぶ歌を作った。
 しかし、そのころは小枝子の肌のぬくもりを想像するだけだった。いまははっきり違う。
 全身で彼女の血のたぎりをたしかめている。これまでの歌にない、熱き血潮が音立てて脈打つ恋の歌になっていた。
 帰京後の二人の往き来は当然ながら頻繁になった。小枝子が離室を訪れる日と、牧水が彼女らが下宿している本郷の春木館に姿を見せる日が、交互に続くこともあった。
 牧水は恋の勝利の美酒に酔っていた。張りと希望にみちた日々でもあった。  だが、それは小枝子と会っている時だけであった。離れていると、つかんだ両の掌からすっと逃がれ出てゆくようなはかなさがあった。その寂しさに胸ふさぐ日もあった。
  『−僕は近来ある大きな問題に逢着して日夜不安の境から脱するわけに行かずにいる。問題といったところで、やはり若き日の愁いとでもいうべきもので、むしろ大いに歓び祝うべきかも知れないのであるけれど、僕は苦しい。
 勝利の悲哀という言葉は何といういたましい意味を含んでいるのだろう』
 平賀にその思いを葉書にしたためて訴えた。二月一日のことだ。
 恋する者の心は四季の空のようだ。風となり雨となり青空と変わって寸刻もとどまることがない。
 その小枝子への様々な思慕が、幾首も幾首もの歌になって彼のノートを埋めていった。
 その一方では、生涯の伴侶とも考える恋人を得て将来への決意をいよいよ固めていた。
 『東亜の光』二月号と三月号に小説『蝙蝠傘』が二回続けて掲載された。   牧水の名は『文章世界』の現代文学者小伝〃に掲載する泉てに高まっていた。
 専念寺境内の桜の老樹のつぼみのふくらみようが、近所の人たちの話題になる三月中旬ごろ、同寺の離京に思いがけぬ来客があった。
 四十歳前後の背は高くないががっちりしたからだつきの男だった。
  『若山牧水先生はご在宅でしょうか』
 いま田舎から上ってきたばかりと言った風来の男が緊張した声で案内を乞うた。
 直井が、目を丸くして牧水の脇腹をつついて言った。笑いをこらえている。
  『繁やん、センセイじゃげながー』
 牧水も少々驚いた。『先生』と呼ばれたのはきょうが生まれて初めてのことだ。
 座敷にあげると、きちんと正座して用件を切り出した。その話だと、その男は干葉県から上京したばかりだが、これから出版業で世の中に役立つ仕事をしたい。
 おいおい月刊文芸雑誌を出すつもりだが、その手始めに『若山先生』の歌の本を出させてもらいたいーと言った。
 物言いといい、両ひざに握りしめて置いた骨くれ立ったこぶしといいとても歌などに興味を持っているような人とは思えない。
 しかし、話の内容も堅実だし、ウソやいつわりをいう人開とはとても思えない。
 かえって、こんな素人っぽい人の方が事業はうまくいくものかもしれない。出版といっても所詮は商売だ。
 牧水はとっさに判断して彼の申し出に快諾した。横で聞いていた直井も結構な話じゃないか。運とは案外こうしたもんだよと賛成してくれた。
 用件をすますと男はそそくさと帰って行った。千葉県の在の方頁てもあるのか、『私などグレだ事しかできないグレだ果て−』と、『グレ』を連発する。
  『グレさん、金は持っていなさるんじゃろね』。
 直井は早速、この男に『グレさん』のあだ名をつけた。しかし、いかにも実直そうな彼に牧水ともども好感を抱いていた。
 思いがけぬ幸運に小躍りして牧水は歌稿のまとめにかかった。といっても、作歌の全部を『新声』に発表しているので、それを書き写せば出来上がる。
 二、三日後にはまとまった。原稿を持って下谷区坂本町二丁目の『文潮社』をたずねた。平家を間借りをして看板をかけただけの出版社に彼はいた。
 素人だから本の体裁がわからない。先生がいいように頼んでください−と四十円をさし出した。
 その足で牛込の日清印刷所に回って打ち合わせた。四号活字、一ページ三首組、全部で百六十ページということになった。

   
つづき 第44週の掲載予定日・・・平成20年10月5日(日)
小 枝 子
(2p目/19pの内)



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