第 37 週 平成20年8月10日(日)〜平成20年8月16日(土) 

第38週の掲載予定日・・・平成20年8月17日(日)

武 蔵 野
(4p目/13pの内)




 挿画 児玉悦夫
 三十九年の元日を牛込区大久保余町の石原方で迎えた。故郷からの毎月きまりの送金が、暮れのうちに届いた。
 都農からの送金は四円五十銭だった。十二月から神戸の長田からも毎月二円送ってもらえることになった。当面は学資や生活費に窮することはない。
 何か、新しい年はよいことでもありそうな、弾むおもいさえしていた。
  『恭賀新年 先月と言ひ本月と申しうれしき御こころがしのほど何とも御礼申しかぬるほどに候。よろしく御察し下され度候。おかげ様にて何とも言へぬうれしさを感じ申し候。この後とても万事よろしく御願ひ申上候』。
 佐太郎あての年賀状にも率直な思いをしたためた。
 父立蔵にも、義兄、叔父の温情を伝え、これからは一切迷うことなく勉強する旨書いてやった。母マキには、とりわけ長田の厚情に感謝していること、『母上よりもよろしくお伝え下され度』と追伸した。
 正月三カ日は、久しぶりに海野ら延岡の滞京組が、たずねてきた。下宿にいてもしかたがないからそのたびに盛り場に出た。おたがいふところは潤沢ではないが、正月だ。安直に一杯くみかわすことになった。
 酔余、ほてったほほを寒風になぶらせて武蔵野に出ることが多かった。土岐、前田夕暮をさそった日もあった。
 延岡在住の関貞蔵にその辺の事情を知らせてやった。関は牧水の延岡中学校の後輩で『行渓』と号して詩歌をたしなんでいる。
 牧水らの『曙』が、彼ら創刊当初からの同人が卒業するため、後継者として関らを勧誘して入会させたものだった。
 新年早々に彼から年賀状が届いた。その返事を十日に出した。武蔵野を描いた三色刷りの絵はがきを細字で埋めた。
  『私の姉なる武蔵野はこんな景色がいくつも集って出来て居るのです。今より折にふれてこんなのをお送り申しませう(中略)。お正月だといふので少し遊びすぎて明日からの学校が辛う御ざいます。寒いさむいで歌も出来ません。ただーつと思ふのを今日野虹に出しときました。国のお正月いかがてした。もう梅も咲きましたろう。

 雲おほき冬の武蔵の榛原(はりはら)に薮うぐひすと春待ちにけり

  『雲おほ今:』は新声二月号に掲載された。その一月号には、前年暮れに詠んだ七首を投稿した。

 冬の丘は紅き花なしみどりなしただ天日の白う照りつつ

 白菊やみやこにちかき里住みの男ばかりの家にみだれぬ
 この年の春、早稲田大学英文科本科の同期生七人が『北斗会』と名付ける文学研究グループをつくった。
 藤田進一郎、三沢豊、土岐善麿、仲田勝之助、安成貞雄、佐藤緑葉、若山牧水だった。名称は“北斗七星”からとったものだ。
 毎週一回集まったが、研究の対象は小説。各自が自作の原稿を持ち寄って合評した。そのうち清書した原稿用紙を綴って回覧雑誌『北斗』を発行することになった。
 前年には、国木田独歩が『独歩集』を出し、夏目漱石が『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を連載しはじめ、上田敏が一時代を画する訳詩集『海潮音』を世に問うている。さらに島村抱月がヨーロッパから帰国、西欧文明の新しい流れを紹介した。
 数年前から文壇に台頭していた自然主義文学の思潮がこの年一気に高まってきていた。
 牧水もこの刺激を受け、特に独歩に心酔して“独歩調”の文章を盛んに書いていた。将来は、小説家として立つ野心もひそかに抱いて、北斗会のメンバーのなかでも緑葉と共に創作、散文に腐心していた。
 独歩が牧水に与えた影響は、ペンの上にとどまらなかった。まるで、人を恋うるごとく武蔵野をたずね、会う人ごとに称揚したのも独歩の『武蔵野』に刺激されていた。
 前田夕暮を誘って武蔵野を訪れ、戸山ケ原 のくぬぎ林に座って独歩の『牛肉と馬鈴薯』を朗読した日もある。
  『山林の生活と言ったばかりで僕の血は沸きます。即ち僕をして北海道を思はしめたのもそれです。僕は折々郊外を散歩しますが、その頃の冬の空晴れて、遠く地平線の上に国境をめぐる連山の雪を戴いてゐるのを見ると、直ぐ僕の血は波立ちます』。
 牧水の詩、散文の朗読は大学でも有名だった。朗読文学会に飛び入で出て披露、満座の人気をさらったものである。
 その名祠て朗読するのを夕暮は聞いた。それは初秋の涼風がくぬぎ林の梢から小さくささやきかける頃てあった。
 牧水の朗読にはまるで恋文を親友に読んで聞かせてでもいるような熱情がこもっていた。
 北斗会で小説の創作批評にはげむ一方で『新声』歌壇への投稿も相変らず多かった。

 遠白うちひさき雲のいざよひぬ松の山なる さくらのうへを   (三月号)

 朝地震や空はかすかに嵐して一山しろき山 ざくらかな    (四月号)

 水の音に似て啼く鳥よ山ざくら松にまじれ る深山のひるを  (五月号)

 いずれも第一歌集『海の声』に収められているが、殊に第三首の『水の音に似て・・・』の新鮮な表現が若い人々の共感をよんだ。
 
武 蔵 野
(5p目/13pの内)




 挿画  児玉悦夫
武 蔵 野
(5p目/13pの内)





挿画 児玉悦夫
 四月十五目に、日暮里の花見立て『新声』の詩友大会が聞かれた。牧水、夕暮ら車前草社の連中が企画したもので、彼らは準備のため前夜から泊り込み、当日は受付係をするなど裏方役で多忙をきわめた。
 その名の如く花見寺の境内に植栽された桜はいま満開。白い花が青空をおおいかくすほどだった。
 午前中は本堂で当時知名の文学者数人が講演をしたのち、競詠会になった。午後は花見をかねた誌友懇親会に移ったが、そのはじめに新体詩の朗吟があった。日ごろのと自慢の詩友数人が得意の詩を朗吟したが、人気をはくしたのは牧水だった。
 袴の腰に左手をおき、軽くこぶしを握った右手を心もち左前下にさし出す得意のポーズで、『笠のうち』を朗唱した。朗々とした美声は他の追随を許さぬものがあり、牧水の名を誌友間にさらに高めることになった。
 身体は小柄で童顔、いかにも田舎出の青年といった風采ながら牧水には独得の雰囲気があった。朗吟のおりはもちろん、座して盃を口に運ぶ所作にもそれは漂っていた。
 大いに面目をほどこしたわけだが、実はその頃、体調はおもわしくなかった。
 三月初めから頭痛と耳鳴りがやまず常に不安感がつきまとっていた。くしゃくしゃする気分を払拭するために飲みに出ることもあったが、心が晴れるのは酔っている間だけ。
 醒めればまた元の木阿弥だった。
 その傾向は桜が散り果て若葉の季節になっても変わらなかった。五月初めに病臥中の正富汪洋にあてた例の武蔵野の絵はがきでもその心細さを訴えている。汪洋に対する病気見舞いというより、自らの悩みが先に立つ文面であった。
  『−きくに兄病めるとか、それかあらぬかまぼろしに見る兄の痩せたることよ/幸に甚だしく病むことなかれ。涙おぼえて気も違うなりぬ。なみだのひまのゆく春の灯の美しさよ、声あげて泣かば我、またいかに美しからむ。 灯のかげに泣ける者より』
 そのうえに持病の脚気まで出た。たまりかねて大学病院て診察を受けたところ、前額部の軟骨が肥大して一種の脳病を起こしたものとの診断だった。電気治療をすれば二三週間で治るという話だが、費用がない。
 それに期末試験がある。断わって三週間ほど学校を休んで安静していた。薬店の薬と牛乳を飲んでいたら気分もややすっきりした。
 落弟が恐いから準備不足ながら試験は受ける。それが終わったら坪谷に帰って治療に専念しようと思った。
 五月末には豊多摩郡戸塚村の北原白秋が借りている一軒家に移って再度の同居になった。
  白秋は前年の春ごろからほとんど大学に顔を出さない。専ら図書館か自宅で読んだり書いたりの生活だった。
 だから英文科本科に籍は置いていても北斗会の同人らとの付き合いは絶えていた。ただ牧水とは、下戸塚の清致館で同宿の仲だった。そのよしみで交際が続いていた。
 今度の転居、同宿を牧水が思い立ち、白秋が喜んで迎えてくれたのもそのためだった。同じ九州出身で、互いにその才能を認め合っていることも二人の結び付きを固くしていた。
 ただ白秋の家から大学果ておよそ四十分かかった。もちろん歩いてのことだ。その点の不便はあった。だが、そのくらいの通学距離があった方が、身体にいいし、第一に気分晴らしになる。
  『これも薬のうちだろう』
 そう思う、楽天的な所も牧水にはあった。
 六月末に試験が終わると、夏休みを待たずに帰省した。神戸の長田方に一泊して翌朝の船に乗った。叔父たちがしきりにとどめたが、病気療養を理由に振り切って乗船した。
 前年の暮れから毎月二円の学資援助を受けている。これまでは気を使うこともなかったのに、それを考えると気づまりであった。
 長田家では無論そんな気配はない。牧水の思い過ごしにすぎないのだが、、そうそう厄介にはなれなかった。
 細島港で下船したら延中同期の親友日高園肋の姿があった。連絡はしてあったが、まさか波止場まで迎えに出てくれているとは思いがけぬことだった。
  『やあ、園肋やん
 急に元気づいて大きく手を振りながら近づいた。ところが、いつもはひょうきんなところがある日高なのにようすが変だ。しょげきっている。
  『お帰り。からだはどうや』。
 いたわってはくれたが、当人の方が病人みたいだ。顔にも声にもはりがない。
 話はあとで、とうながされて彼の家に寄った。二人になって彼がぼそぼそ打ち明ける話を聞いて驚いた。
 日高の意気消沈の原因は失恋だった。
 日高は学校がある神戸の父の知人の家に下宿していた。たまたま知人宅の隣家にかわいい娘がいて一目で恋してしまった。それからは勉強にも手がつかず朝夕、どうにかして会えないか、そればかり考えている。
 幾度かその機会に恵まれるうちに娘も好意を抱くようになり、人目をしのんで手紙をとりかわす仲に発展した。日高は有頂点になった。人目にもついた。いつか娘の母親に知られてしまった。
 母親が黙っているはずがない。

   つづき 第38週の掲載予定日・・・平成20年8月17日(日)

武 蔵 野
(6p目/13pの内)





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