第 12 週 平成20年2月17日(日)〜平成20年2月23日(土) 

第13週の掲載予定日・・・平成20年2月24日(日)

白    雨
(5p目/10pの内)








 挿画 児玉悦夫
 この秋の熊本の旅は、十四歳の春、母マキ、義兄河野佐太郎にせが
んで連れて行ってもらった金比羅参りと大阪見物の旅に次ぐ大旅行で
てあった。
 高千穂から阿蘇、竹田、三重。三県にまたがる十三泊十四日間。牧
水の日記をもとに長長とつづったが、彼にとって晩秋の旅は終生忘れ
得ぬ思い出になった。
 金比羅参りのころと違って、牧水の文芸開眼の時期である。一山一
河、めぐりあう他国の風物人情の印象も深いものがあった。
 旅行から帰って間もない十一月二十九日から十二月三日にかけ、
三回にわたって、この旅での歌二十八首を日州独立新聞に発表した。
 題して 
 『すげ笠』。

   三田井にて

 日向国高千穂峰の秋や探き宮居をこめて風みだれ吹く

   大演習地にて

 白銀の鞍は朝日に閃きて駒のいななき秋風に高き
 
   熊本城を見て

 名にし負う銀杏は秋の日にはえて澄みしみ空に天主閣高し

 高千穂町の高千穂峡御塩井に昭和三十八年四月十三日、牧水歌碑
が除幕された。郷土史家松田仙峡氏が、町の協力を得て建てたもの
だ。
 碑面の歌は『幾山河』の一首。少年の日の牧水の歌では後世に伝
えるにどうか−と首をかしげたものか。三田井で詠んだ歌三首からは
取りあげなかった。
 明治三十五年はかくして暮れる。

 『鳴呼遂二三十五ノ年モ逝ケリ、机二対シテ感ナキ能ハズ』。

 牧水は感慨をこめて、こう記してこの年の日記を閉じている。
 この年、宮崎県では四月十二日に県立図書館が完成、五月一日に
は県立飯肥農学校と児湯郡立農学校の二校が開校している。さらに
同月三十一日には、本県でただ一つの女子職業学校として北諸県郡
立女子職業学校が生まれている。
 教育施設の整備とともに義務教育の普及徹底も進んだ。小学校の
全国就学率が初めて九〇%を超えている。
 明治三十六年。牧水は当時の数えようで十九歳の初春を坪谷でむ
かえる。
 八日からの始業式のため、六日には延岡に出た。延岡では、厳寒
の中をほとんど毎日、野虹会の仲間の家を往復する。歌を作り、合評
して夜を徹することも珍しくない。
 牧水はこのころ、日に二十三百から六十七首を作歌していた−と言
うから、その意欲には驚嘆する。
 歌才ほとばしる感じである。
 彼らのひんばんな会合をけげんな思いで見る目もあった。
 一月三十日は、伊藤金蔵(月舟)宅で野虹会の例会を開いた。
歌の互選などをして午後散会した。その夕方、いったん帰宅して
いた牧水を、伊藤が下宿にたずねた。

 『繁やんよ。どうも腹ん立つこつかあるとよ。近所の交番の巡査
が、オレたちの会をうさんくさい目でにらんじょるごつある。しゃくに
さわるから署長に談判しようじゃねえの』
 『ウン、オレもどうもそんな気がしてならんかった。すぐに行こうや』


 牧水は生来負けん気が強い。さっそく二人で連れ立ち、途中で
大見達也(桂嵐)を誘って延岡警察署の門をくぐった。
 三人、大いに意気込んで、野虹会のなんたるかを論じた。うさんく
さい目で見たーといっても根拠のある話じゃない。しょせんは水掛
け論。牧水らがぶち、署長がおうようにうけこたえすることで結着
がついた。
 野虹会の連中、俗世間をやや下に見る気負いがあった。
 歌に熱心なあまり、学習がおろそかになる気配もあった。二月
一日の日記には

 『・・ 夜幾何ヲ少シ代数ヲヨリ少シ見ル。今月ヨリ教科書ヲ見ル可
ク決定セリ。変ゼザル様心ガク可キコトナリ』

とある。殊勝であるが、そう決心せざるを得ぬ状況があったと見え
る。
 二月七日には山陰の従兄花が来延、翌八日、宿泊先の南町
菊池旅館に訪うて文芸話に興ずる。野虹会の仲間も次々に集まる。
 ところが、牧水が十日から発病。胃と肝臓が痛んで四〇度の発
熱。二週間ほど休むことになる。
 その間に花は熊本へ旅立っている。またも漂泊の旅が始まっ
た。
 三月に入ってからは、歌を作る一方で試験準備にも打ち込む。だ
が、二月一日の決心はとかくにぶりがちで、何も彼も『むつかしき
には大閉口』の毎日だった。
 それでもどうにか二十日は学年試験も終了、二十二日朝、下宿を
出て馬車で東郷に向かう。試験がすんだら現金なものだ。

 『春の風、暖かに身を吹いて、駒の噺、車輪のひびき、いと勇まし
うも聞きなされつ』


 日記の文字もおどっている。
 山陰で馬車を降りて坪谷までは歩いた。病後でからだは重い。
だが、いそぐ心が足取りを軽くする。午後三時には家に着いた。門
の傍の八重桜はまだつぼみだが、点々と山を彩る山ざくらの花は
いま見ごろである。
 家族の迎えようもいつもの如くあたたかい。知らせてあるので、
細島の走り魚屋の鮮魚も買ってある。
 立蔵は自分で魚を料理した。牧水とそれをさかなにくむ酒が何よ
りの楽しみだった。
白    雨
(6p目/10pの内)









 挿画  児玉悦夫
白    雨
(7p目/10pの内)










挿画 児玉悦夫
 春休みは短い。門のかたえの八重桜が満開になるのを待たずに
四月五日、雨の中を家を出る。あいにくの雨のため人力車を呼ぶ。
朝六時だから明けてはいるが雨もやであたりは暗い。しばしの別れ
をつらくする。
 いつもの山陰の船戸から舟で耳川くだり。

 あたたかき冬の朝かなうす板のはそ長き舟に耳川くだる

 季節はちがうが、情景は変わらない。春の雨が豊かな水量をさら
にふくらましている。流れは早く九時には美々津に着いた。
 同町上町の福田清宅に寄る。若山家と縁続きになる。西村美樹
も来る。福田、西村と同道して、近くの立岩神社にもうで海辺に出て
遊んだ。
 翌日、都農の河野宅を訪れて一日をすごす。翌七日、そこを立ち
美々津に再度、足をとめ小野葉桜に会う。葉桜は岩治と言い、野虹
会の校外全員だ。歌の話になり、興は尽きない。西村、福田にせ
き立てられてようやく乗合馬車に乗る。相客は老人ひとり。
 富高で乗り継ぎ延岡に着いたのが午後二時すぎだった。
 都農では、義兄佐太郎から三円、姉ス工から七円、河野の本家
から一円をもらった。にわかにふところがあたたかくなった。
 八日から始業。級の編成変えがあり、牧水は甲から乙組にかわ
る。中学校に入って以来ずっと『甲組』だったのに、と少々不満?気
である。評点の甲乙とは関係ないのに〜。
 このころの日記をみると、牧水は二日とあけずに親類の黒木教諭
宅を訪問している。黒木は河野佐太郎の義弟にあたる。血のつなが
りはないのだが、牧水の文学的才能を評価しなにくれと世話してくれ
る。
 師弟と言うよりも、文学好きな仲間という感じで夜遅くまで読んだ
本を話のタネに語り合うことが多かった。夕食を馳走になり、ついに
泊ることさえ、さいさいであった。
 のちに、牧水の東京遊学志望をたすけ、強く反対する河野を説得
したのも彼黒木であった。牧水の文学への道を直接切り開いてくれ
た恩人といえる。
 歌の方では、この四月一日に野虹会の回覧雑誌『野虹』第一号
を出している。
 短歌だけの雑誌で、会員はたびたび登場する同好の十一人。
このうち四人は学校外からの参加であった。
 牧水(当時白雨) の歌は

 山寺の枝折戸たたく朝月夜いらへはあらで鴬の声

 この歌に対し、『枝折戸の外に梅一本立てりの余意あり。先づ無
難であるが、若し白雨のならんには感心仕りかねるてや』(葉桜)
と評している。歌は匿名で出している。
 五月に入って延岡中学の校友会の規則改正と役員選挙があった。
選挙は同月六日、八日には投票結果の発表があった。
 牧水は雑誌部長に推されていた。彼は『吾は誤って雑誌部長に推選さ
れぬ』と言っているが、同校、いや延岡の文芸を愛好する若者たちの間
でだれ知らぬ者はない存在だ。
 全校一致して雑誌部長就任を望んだ。
 校友会役員は、古川正雄、百渓禄郎太、甲斐猛一、松本庫太郎、乗秀
小三郎の五人が幹事に選ばれた。
 部長には、牧水の雑誌のほか、講演部・鈴木財三、撃剣部(剣道)・後
藤又雄、柔術部(柔道)・小田四郎、野球部・菊池秋四郎、庭球部・古川
清、短艇部(ボート)・鈴木戻夫、水泳部・泉毅一郎のめんめんだった。
 雑誌部の仲間には、歌友の阿南卓、大見達也の二人が部員として加
わった。
 放課後、幹事、部長は校長室でうやうやしく辞令の交付を受けた。
 『誤って』とは言うものの、牧水は雑誌部長就任に大いに気をよくしてい
る。翌九日は早速、部会を開いて事業計画と予算案を検討する張り切り
ようであった。
 発行部数一回五百五十部にして年三回発行の計画と年間予算百九十
六円を計上して学校側に提案した。
 意気込んで計画案をねりあげたのだったが、発行計画はよいとして、
予算が過大すぎる。
 『再考してくれ』と、突っ返された。
 それじゃあ、印刷屋を説得して印刷代をまけてもらうほかはない。
 『校長ももったいつけて辞令をくれたわりにゃ。こんめえの』
 『体育関係の部費に回しすぎるかりよ』
 大見、阿南を伴って牧水は、ぐちりながらも南町の野井印刷所をたずね
た。印刷・製本代を値切るだけ値切って、学校側のソロバンに合わせるつ
もりだった。
 だが、主人が不在で話にならない。出鼻をくじかれてむしゃくしゃする。
気分直しに理髪店に寄って帰った。そりたてのえり足に五月の風がここ
ろよかった。
 翌日も野井印刷所を大見と訪れたが、またも不在。追いついた阿南と
三人で城山に登った。阿南の情報によると、昨日の幹事会で立てた雑
誌部の予算案は僅か五十円と言う。
 『そんなバカなー。百渓もいてなんちゅうわけのわからんこつをすっと
かー』
 憤慨しただけではラチはあかない。また三人で印刷所を訪問した。今
度は主人がいた。
 『三顧とは孔明なみだな』と苦笑する。
 野井は、五百部刷って一部十二銭。これ以下では、いかに中学校の
校友会雑誌だと言っても請け負えぬと譲らない。
白    雨
(8p目/10pの内)








挿画 児玉悦夫
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