第 10 週 平成20年2月3日(日)〜平成20年2月9日(土) 

第11週の掲載予定日・・・平成20年2月10日(日)

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(7p目/10pの内)








 挿画 児玉悦夫
 牧水は七月寸ハロ朝、坪谷の生家に帰り着いた。長い夏休み中
父母、姉シヅらと過ごすことになる。
 牧水は、春、夏、冬の学校の休暇になると期日よりも一両日も早
くから帰省する。反対に休暇が終わって登校する段になると、幾日
か遅れて坪谷をたって行った。
 その経験は、終戦前後、旧中学校や新制高校生活を送った牧水
のはるか後輩らもしている。
 食糧事情のせいで、明徳寮生の何人かに常習者?もいた。
 牧水の場合はむろん事情がちがう。父母との生活、それにもまし
て坪谷川や近くの裏山とのふれあいが彼を離れがたくしている。
この夏も、早速、坪谷川で釣りを楽しんでいる。
 十九日の午後は釣りに行っている。かなりの釣果があったし、
『二回水泳ス』と、楽しんでいる。
 坪谷川はアユ、ウグヒ、コイなど魚影の濃い川である。川幅がせ
まいわりには今も釣人が多い。
 とくに若山家は、当主の父立蔵が無類の漁好きだった。親子して
半日も、時には一日中釣り暮らすことも珍しくなかった。

 
上つ瀬と下っ瀬に居りてをりをりに呼びかわしつつ父と釣りにき

 瀬の水は練絹なしつ日に透きて輝ける瀬に鮎は遊びき

 
釣り暮し帰れば母に叱られき叱れる母に渡しき鮎を

 いずれも
『黒松』収録の歌『鮎つりの思ひ出』から選んだ。
 こうも楽しい川遊びがあっては、一日でも多く夏季休暇を楽しみ
たかったろう。ここには、『新声』その他の文芸雑誌に作品を次々
に選ばれている延岡中学校随一の文芸家の顔はない。あくまで、
釣好きの『繁あんちゃん』であった。

 
二十日、雨、水ノ濁リヲ幸トシ、下へ糸ヲ垂レテウナギ三疋。蟹
       (かに)一ツヲトル。落シ込ム事多キハ残念。

 二十一日、曇、夜釣リ二行キテ鰻ヲ得テ帰ル

 二十二日、雨、夜釣り二出懸ケテ失敗ス

 二十四日、晴、今日始メテ父ト鮎ヲ釣ル、半日の得物二十四疋。

 二十五日、晴、終日漁二暮ラス、得物少ナカラズ

 二十六日、晴、金田君多クノ坊主ヲ連レ来ル、夕方又再ビ夜サリ
           ニトテ出懸ケ大失敗ヲヤラカス、嗚呼嗚呼。

 二十七日、晴、暑気ニサワリシモノカ終日心地常ナラズ、水モ泳
        ガズ魚モ釣ラズ、病を得てようやく“釣り日記”が終わ
        った。


 自然児の面目躍如たるものがある。
 牧水が、釣りに読書、、手紙の往復に、故郷の夏休みを満喫して
いるころ、やがては彼が船出して行くべき中央の芸術の海では、
そのころ次の動きがあった。
 一月には徳富蘆花が『黒潮』を国民新聞に連載しはじめ、五月
五日には、正岡子規が名随筆『病牀五尺』を雑誌『日本』に発表、
国木田独歩が雑誌『教育界』七月号に『富岡先生』を書いている。
 子規は、夏休みが終わり、第二学期が始まったばかりの九月
十九日、初秋の風に誘われて世を去る。三十六歳の若さであった。
 ユゴー作・黒岩涙香訳の『噫無情』の万朝報連載が始まったのも
この年の十月九日からである。主人公の数奇な運命に天下の子
女が紅涙をしぼり、万朝報の評価が一躍高まった。
 涙香は探偵小説家で新聞経営者。デュマの『モンテ・クリスト』を
『巌窟王』(明治四十四年三月から万朝報連載)、ユゴーの『レ・ミ
ゼラブル』を『噫無情』と題して翻訳、涙香文学の極致を示した。
 彼が創設した新聞『万朝報』の題字は、『よろずちょうほう(重宝)』
のもじりで、他紙が数ページを費して報道しているニュースを僅か
四ページの紙面に圧縮して紹介、多忙な購読者の便をはかる編
集方針を立てた。
 はじめは、そのために活字、段組みの工夫をしたが、結局は短
い文章で多くの内容を伝える工夫以外にないと覚る。それが、
センテンスの短い独得の新聞記事スタイルの原点になった−とい
う。
 さらに秋には島崎藤村が『旧主人』、独歩が 『酒中日記』の名作
を世に問うが、暮れの二十四日には高山樗牛が三十二歳で没した。
 明治期を代表する文芸諸家のこの年の動静だが、牧水にとって
影響もなければ関心も持ち得なかった。
 ひたすら、アユを釣り、ウナギをねらって夏の日を過ごすべきで
あった。ところが、残念にも二十七日以来、暑気あたりででもあっ
たか、気分すぐれず寝たり起きたりで、八月一日まで無為に過ごし
た。 曙会員ら友人との文通がただひとつの慰めであった。
 だが、牧水自身が無りょうに耐えかねたのであろう。不意に思い
立って連れといっしょに都農町の義兄河野佐太郎宅をたずねること
にした。夕方から仕度もそこそこに出立した。
 坪谷から山陰まての十二、三`は徒歩。急いだつもりだが、落児
(おろしご)あたりからちょうちんで足元を照らして歩いた。
 同夜は山陰の従兄峻一宅に一泊。またも文芸論で一夜明かして
翌朝早く、船戸から細長き板舟で耳川を下って行った。
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(8p目/10pの内)










挿画 児玉悦夫
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(9p目/10pの内)










挿画 児玉悦夫
 牧水が八月二目早朝、高瀬舟と呼ばれる板舟で下って行った耳
川は、水源を宮崎・熊本県境に発している。
 延長約百二十`、十根川、柳原川、坪谷川などの清流を合流して
椎葉、諸塚、西郷、東郷、日向、そして山ひと峰置いて南郷の一市
一町四村を流域に、日向灘の神式天皇お船出で名高い美々津河
口に注いでいる。
 現在は、この豊かな水量を利用して、出力九万`hの上椎葉発
電所の日本最初のアーチ式ダム日向椎葉湖をはじめ、岩屋戸、塚
原、諸塚、山須原、西郷、大内原の七つの九州電力発電所の貯水
ダムが建設されている。
 このため、放水時期を除いて下流の流水量は少ない。
 だが、明治三十五年夏のころには耳川の自然流量をせき止める
物は何一つない。川幅いっぱいの清流がところによっては空に盛り
上がるようにふくらんでながれている。
 余談になるが、いま七つの発電所の最大発電総量は三十三万三
千二百`hに及んでいる。同一水系で三十万`h以上の電気を
生んでいるのは九州では耳川だけである。
 耳川の流水量は昔も今も豊かてある。
 日向市と椎葉村を結ぶ通称“百万円道路”が開通するまで荷馬車
が通う一貫道路はなかった。富高、細島、美々津、都農、そして延
岡と入郷地方の村々をつなぐ輸送路は、多くの場合、耳川に頼る
ほかはなかった。
 下りは積荷を満載した高瀬舟が流れに乗って川面をすべって行っ
た。
 上りは、白い大きい帆を立てて押しあげ押しあげ急流をさかのぼっ
ていた。瀬にかかると船頭が声を合わせて引き網を肩でひいた。
 日向木びき歌は残っているが、船引き歌は聞かない。美々津の
問屋跡の隅に残っていてもなんの不思議はないのに−。
 牧水はいったん美々津港で川舟を降り、それから陸路都農町に
向かった。河野宅に着いだのが午前十一時ごろだった。
 河野宅では、先ぶれなしの来訪に驚き、かつ歓迎した。佐太郎、
スエの夫婦にとって、牧水は弟よりむしろ愛児であった。
 都農は夏祭り当日だった。それを目あてに牧水もはるばるたずね
たわけである。
 都農神社は『日向一の宮』と呼ばれる有名な神社で社格も高い。
祭事も盛大だし参拝客も近郷からつめかける。神輿(みこし)、だん
じりが勇壮。『けんか口出すな』の町らしいにぎわいだ。
 牧水は、同夜、一の宮神社の境内の人混みの中で、新名、金丸、
綾部ら友人と出会い、ニワカ芝居などを見る。
 また釣り好きの彼らしく夕方、浜にボラ釣りに行った。釣果は『失敗
ス』だった。
 都農町の河野宅で、三日、四日と何することもなく過ごした。
 三日の午後から降り出した雨はいっこうにやみそうもない。同町
の坂田弁二という牧水より歳上の好学の青年と、学校生活や文芸
活動など語り合ってすごした。
 坂田はその後、東京に遊学、上京した牧水ら同郷の若者同土で
親しく付き合うことになる。
 四日の夕方、坪谷からたよりがあった。延岡中学校の同窓、門
馬が延岡からたずねてきている。すぐに帰るように−とある。
 いまからでは足がない。あす、ということで明早朝に河野宅を出
る。雨は小やみもせず降り続いている。
 美々津河ロの船着き場まできたが、耳川をのぼる便船がない。
 耳川ぞいに東郷村鳥川、広瀬、福瀬から中ノ原へたどる道はあ
るにはある。だが、切り立つ崖(がけ)に唐ぐわで筋をつけたような
あやうい道か、けもの道を少々広げたくらいの山路しかない。
 強い雨て崖くずれもでていよう。とてもこの降りのなか通れるもの
じゃない。美々津の船着き場近くのー膳めし屋の女主人がひきと
める。
 牧水の一行は『稔坊、来坊、稲爺さん』が同行者。稔坊は牧水の
次姉トモと小学校校長今西吉郎の間の長男、つまり牧水にとっては
甥(おい)にあたる今西稔である。
 当時、今西一家は門川町の河内に住んでいたが、稔は宮崎の
学校に進学していた。夏休みで河内の今西の家に帰省することに
なった。
 それを四日、都農まで河内の稲爺さんがむかえにきてこの朝いっ
しょに出立したのだった。
 来坊は『きたる』とでも呼ぶのか−。牧水といっしょに坪谷を一日
夕方たってきている。親類か近所の幼な友だちである。日頃から
繁あんちゃんを慕っていた。
 ともかく耳川ぞいの山道をたどることは断念。馬車でいったん富
高に出て、山陰まで帰った。
 従兄峻一宅に寄ってみると、門馬はここまで下ってきていた。しば
し語り合って坪谷に帰りついたのは午後五時を回っていた。
 たあいなく夏休みを過ごすうちに牧水は、投稿雑誌のほかに『日
州独立新聞』にはじめて歌稿を送った。七日である。
 峻一こと冰花の歌があれ以来、夏休みに入ってからもたびたび
この新聞のいまでいう文芸欄をにぎわしている。牧水としても、ひそ
かに期するものがあった。
 紙面に牧水の歌が出だのが、十二日。『独立文界』欄に九首、坪
谷 白雨楼とある。
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(10p目/10pの内)








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