歌の友 「石川  啄木」 の死
明治四十五年  四月(1912)26歳

初夏の 曇りの底に 桜咲き居り
       おとろへはてて 君死ににけり



 啄木の死を報じた友人宛のハガキ
  明治四十五年四月十三日、歌の友石川啄木が死去しました。
  牧水は前日雑誌のことで啄木を訪ずれました。
  啄木は病床に臥していて枕の許にあった小さな薬の箱を牧水
 に示して、「僕はこの薬を飲めば病気は治るのだが買う金がない
 君貸してくれないか」と云います。
  牧水も金は持ちませんので友だちにたずね歩きましたが出来
 ませんでした。
  帰ってふと啄木の机の上を見ますと啄木の死後に出版された
 歌集 『悲しき玩具』 の原稿がありましたのでその原稿を
 東雲堂書店に持参して二十円を借りて啄木に与えました。
  啄木は涙を流して喜びました。
  牧水は啄木の気分もよいので下宿に帰ってやすみました。
  翌朝早く啄木の夫人から危篤だとの報せが来ました。
  牧水が急いで行きますと夫人が啄木の耳許に口をあて「牧水
 さんが見えましたよ、わかりませんか」と呼びつづけますと奇跡
 的にも眼を開いて牧水の顔を見てにっこり笑い、昨日の金の礼
 を云い薬を買って飲んだことや雑誌のことなど話していましたが
 再び危篤に陥りました。
  牧水はすぐ医師を迎えに走り、帰って啄木の枕許を見ますと
 啄木の長女の京子の姿がありません。
  牧水はさがしに外に出て桜の落花でままごとをしていた京子
 を抱いて啄木の枕許に連れて来た時はすでに息を引きとって
 いました。
          そのときのことを詠んだ歌

    君が娘は 庭のかたへの 八重桜
         散りしを拾い うつつとも無し


  牧水は一日中独りで走り廻って啄木の葬式の準備をしました。
 夜の十時頃までは数人の通夜の客も居ましたが夜半を過ぎる
 頃になると啄木の枕許には啄木の父と牧水の二人でした。
  夫人は同じ胸部疾患が重いので隣室に伏していました。
  明け方近くになると啄木の父と牧水は話すことも無くなりまし
 た。
  この時、啄木の父は牧水に一筆書いた紙片をわたしました。
  牧水がそれを読みますと

 「母みまかりて中陰のうちにまたその子うせければ」
            
と題して

    親とりの ゆくえたづねて 子すゝめの
          死出の山路を いそぐなるらむ

 とありました。
  牧水はこれを読んて、子を思う親の愛情に堪え兼ねて
 悲しみの余り、その日の啄木の葬儀には参列することは
 出来ませんでした。