関 西 地 方 の 旅

大正七年五月(1918)32歳

 牧水は大正七年五月関西地方の旅に出ました。一週間位の仕事を持参して比叡山の老番人の
いる山寺に泊めてもらいました。
 古寺での一週間の生活を 
紀行文 『山寺』 に次のように記しています。

 「タ闇の部屋の中へ流れ込むのさえはっきりと見えていた霧はいつとなく消えて行って、とうとう
雨は本降りとなった。
 あまりの音のすさまじさに縁側に出てみると、庭先から直ぐ立ち並んだ、深い杉の木立の中へさ
んさんと降り注ぐ雨脚は一帯にただ見渡されて、木立から木立の梢にかけて濛々と水煙が立ち摩
いている。
 其処へ寺男の爺さんが洋灯に火をつけて持って来た。
 ひどい降りだ、斯んな日は火でも沢山おこさないと座敷が湿けていけないと言いながら囲炉裡
に炭を山の様に ついでいる。
 さすがに山の上で斯うせねばまた寒くもあるのだ。
 そして早速雨戸を締めてしまった。がらんとした広い室内が急にひっそりした様であったがそれ
も暫しで、滝の様な雨声は前より一層あざやかにこの部屋を包んでしまった。
 来る早々斯んな雨に会って、私は深い興味と気味悪さとに攻められながら改めてこの朽ちかけ
た様な山寺の一室をしみじみと見廻さざるを得なかった。
 さつき爺さんはやがて膳を運んで来た。見れば私の分だけである。
 先刻の峠茶屋の爺さんの言葉もあるので私は強いて彼自身の分をも此処に運ばせ、徳利や杯
をも取り寄せ、先刻茶屋から持って来た四合壜二本を身近く引寄せて二人して飲み始めた。
 まつたく爺さんの喜び様は真実見ているのがいじらしい位いで、私のさす一杯一杯を拝む様に
して飲んでいる 。
 斯ういう上酒は何年振とかだ、勿体ない勿体ないといいながら、いつの間にか酔って来たと見
え、固くしていた膝をも崩し、段々囲炉裡の側へもにじり出して来た。
  爺さん、名を伊藤孝太郎といい、この比叡山の麓の坂本の生れで、家は土地でもかなりの百
姓をしていたが、彼自身はそれを嫌って京都に出て西陣織の職工をやっていた。
 生来の酒好きで、いつもそのために失敗り続けていたが、それを苦に病み通した女一房が死に
やがて一人の娘がまた直ぐそのあとを追うてからは、彼は完全な飲んだくれになってしまった。
  郷里の家邸から地面をも瞬く間に飲んでしまい、終には三十五年とか勤めていた西陣の主人
の家をも失敗って、旅から旅へと流れ渡る様になり、身体の自由 も利かなくなって北海道からこ
の郷里に帰って来たのが、今から六年前の事であるのだそうだ。
 帰ったところで家も無し、ためになる様な身よりも無しで、とうとう斯んな山寺の寺男に入り込ん
だというのである。
 その概略をば昼間峠の茶屋で其処の爺さんから聞いたのであったが、いま眼の前にその本人
を見守りながらその事を思い出しているといかにもいじらしい思いがして、私は自分で飲むのは
 忘れて彼に杯を強いた。
 難有い難有いと言い続げながら、やがてはどうせ私も既う長い事は無いし、いつか一度思う存
分飲んで見度いと思っていたが、矢っ張り阿弥陀様のお蔭かして今日旦那に逢って斯んな難有
いことは無い、毎朝私は御燈明を上げながら、決して長生きをしようとは思わない、いつ死んでも
いいが、唯だどうかぽっくりと死なして下されとそればかり祈っていたのであるが、この分ではもう
今夜死んでも憾みは無い、などと言いながら眼には涙を浮べて居る。五尺七八寸もあろうかと思
われる大男で、眼の大きい、口もとのよく締らない様な、見るからに好人物で遠いというより全く
の全聾であるほど耳が遠い。
 それが不思議に、酒を飲み始めてからは案外によく聞え出して、後では平常通りの声で話が通
ずる様になった。
 そして今度は向うで言う呂律が怪しくなって、私の耳に聞き取りにくくなって来た。
 今夜死んでもいいなどというのを聞いてから、急に斯う飲ませていいか知らと私も気になり出し
たのであったが、いつの間にか二本の壜を空にしてしまった。
 私だけは軽く茶漬を掻き込んだが、爺さんはとうとう飯もよう食わず、膳も何も其侭にしておいて
何か鼻唄をうたいながら自分の部屋に寝に行った。
 私も独りで部屋の隅に床を延べて横になったが妙に眼が冴えて眠れず、まじまじとしているとま
た耳につくのは雨の音である。まだ盛んに降っている。のみならず、妙な音が部屋の中でする様
なので細めた灯をかきあげてみると果して隅の一本の柱がべっとりと濡れて、そのあたりにぽと
ぽとと雨が漏っているのである。
 枕許まで来ねばよいがと、気を揉みながらいつか其侭に眠ってしまった。
 眼が覚めて見ると雨戸の隙間が明るくなっている。雨は、と思うと何の音もせぬ。もう爺さんも
起きた頃だと勝手元の方に耳を澄ませても何の音もせぬ。
  まさか何事もあったのではあるまいと流石に胸をときめかせながら寝たまま煙草に火をつけて
いると、朗かに蹄く鳥の声が耳に入って来た。
 何というその鳥の多さだろう。あれかこれかと心あたりの鳥の名を思い出していても、とても数
え切れぬほどの種々の音色が枕の上に落ちて来る。
 私は耐え難くなって飛び起きた。
 そして雨戸を引きあげた。
 照るともなく、曇るともなく、燻り渡った一面の光である。見上ぐる杉の木立は次から次と唯だ静
かに押し並んで、見渡す限り微かな風もない。
 それからそれと眼を移して見ていると、私は杉の木立と木立との間に遥かに光るものを見出し
た。
 麓の琵琶湖である。何処から何処までとその周囲も解らないが、兎に角朧々とその水面の一
部が輝いているのである。
 余りに静かな眺めなので私はわれを忘れてぼんやりと其処らを見廻していたがまた一つのもの
を見出した。
 丁度渓間の様になって眼前から直ぐ落ち込んで行っている窪地一帯には僅かの間杉木立が途
断えて細長い雑木林となっているが、その藪の中をのそりのそりと半身を屈めながら何か探して
いる人がいるのである。
 頭を丸々と剃った大男の、紛う方なき寺男の爺さんである。
 それを見ると妙に私は嬉しくなって大声に呼びかけたが、案の定、彼は振向こうともしなかった。
 後、庭に降りて筧の前で顔を洗って居ると爺さんは青々とした野生の独活を提げて帰って 来た。
 斯んなものも出ていたと言いながら二三本の筍をも取出して見せた。(中略)
 いよいよ私の寺を立つ日が来た。その前の晩、お別れだからと云うので、私は爺さんのほか、最
初私をこの寺に周旋して呉れた麓の茶屋の爺さんをも呼んで、いつもよりやや念入の酒宴を開
いた。
 茶屋の爺さんは寺の爺さんより五歳上の七十一歳だ相だが、まだ極めて達者で、数年来、山
中の一軒家にただ独り寝起して昼間だけ女房や娘を麓から通わせているのである。
 寺の爺さんは私の出した幾らでもない金を持って朝から麓へ降りて、実に克明に種々な食物を
買って来た。
 酒も多く取り寄せ、私もその夜は大いに酔うつもりで、サテ三人して囲炉裡を囲んでゆっくりと飲
 み始めた。  が、矢張り爺さん達の方が先に酔って、私は空しく二人の酔いぶりを見て居る様な
事になった。
 そしてロも利けなくなった。
 両個の爺さんがよれつもつれつして酔っているのを見て、楽しいとも悲しいとも知れぬ感じが身
に湧いて、私はたびたび涙を飲みこんだ。
 やがて一人は全く酔いつぶれ、一人は剛情にも是非茶屋まで帰るというのだが脚が利かぬの
で私はそれを肩にして一里半の山路を送って行った。
 そうして愈々別れる時、もうこれで旦那とも一生のお別れだろうが、と言われてとうとう私も泣い
てしまった。
 翌日、早朝から転居をする筈の孝太爺は私に別れかねてせめて麓までと八瀬村まで送って来
た。
 其処で尚お別れかね、とうとう京都まで送って来た。
 京都での別れは一層つらかった。」