第 69 週 平成21年3月22日(日)〜平成21年3月28日(土) 

第70週の掲載予定日・・・平成21年3月29日(日)

ホトトギス
(2p目/3pの内)




 挿画 児玉悦夫

 翌日は芦の湯、湯の花沢を経て強羅から小田原に降りて北原白秋をたずねた。
 白秋は大正七年二月から小田原に住んでいた。同二年に隣家の人妻松下俊子との恋愛問題から市ケ谷の未決監に拘留される事件に巻き込まれた。結局、無罪放免になったが打撃は大きかった。そのうえ柳川の実家が破産する不運も重なった。
 しかし、小田原に移ったころは鈴木三重古の児童文学雑誌『赤い鳥』の童謡を担当、童謡、民謡の面に新境地を開拓していた。その新しい波は全国に広がり、彼のもとから秀れた童謡詩人、詩歌人多数が世に出ていた。
 たまたまこの年の三月初めに白秋から牧水に電報が来ていた。どうやら牧水の近況について気がかりになるうわさを聞いたものらしい。牧水もすぐに返事を出しておいた。
  『−僕の細君、最初の電報を解釈して日く、アナタが此頃あんまり悄気てるので三原山にでも出かけたという噂が立って、それで北原さんが心配したのではないでしょうかと。まさかまだなか々々死ねない。近々是非お邪魔します。病気と借金で近来目鼻あかず、ひとつ大にあけて貰いましょう』
 そんないきさつもあるので是非会いたかったが、白秋はあいにく不在。前年四月に結婚したばかりの三人目の妻菊子が生まれて間もない赤子を抱いていた。
 強羅で二人の財布をはたいてビールを飲んできたのだが、折角たずねてくれた夫の親友のために菊子が酒肴をととのえてくれた。
  『るすの様な気がして、ふいに出て来たところやっぱりるすであった。そして、いろんな意味で此処の家を去りがてにしている。然し、君の留守であったことを一面感謝しながら、どうしても今夜沼津まで帰らねばならぬことを頭におきながら、やっぱり御馳走になっています。
 何より、赤ちゃんを見たのがうれしかった。どうにかすると、丁度、その騒ぎの中にとびこみはしないかと思って来たのであった』。
 置き手紙をして帰った。小田原で細野と別れて沼津に着いたのは夜十時を過ぎていた。
 六月初めにはまたふらりと草鞋をはいて家を出た。汽車で裾野駅まで行き夏の大野原を歩いて一昨年と同じ清水館に泊って翌日帰った。残雪の富士を仰いでの旅は心洗われる思いで、多くの歌ができた。

 草の穂にとまりて啼くよ富士が嶺の裾野の原の夏の雲雀は

 日をひと日富士をまともに仰ぎ来てこよひを泊る野の中の村

 この頃、牧水はようやく健康に自信を持ってきていた。そして沼津の生活にもなれていて永住の気持が強くなっていた。


 牧水が健康に自信が持てるようになったことと、沼津在に永住の心境になったことが彼の生活と仕事に大きい区切りを画することになった。
 東京から香貫に移って来て七月で満二年になる。当初は北下浦と同じようにしばしの転地で、二、三年もしたら東京に引き揚げる心づもりだった。
 だが、住んでみると人情風土いずれも申し分ない。新鮮な食物と清浄な空気が幸いしたものか、牧水自身はもちろん生来病弱だったみさきまで此処に移ってから見違えるように健康になった。
 今さらほこりっぽく喧騒な東京の市街地に戻って行く気には到底なれない。
 ここを永住の地と定めたうえで二つの仕事に着手する決心をした。その一つは住宅の建築、いま一つは『創作』の経営問題だった。
  『創作』は東京を出るとき、義弟の長谷川銀作・潮みどりの夫妻に経営をまかせて牧水は編集だけを担当することにしていまに至っている。
 編集と発行が沼津在と横浜に分かれていては何かと不便である。それを本来の牧水一本にまとめることだった。
 長谷川夫妻に相談したところ、無論彼らに異存はない。懸念していた印刷も『耕文社』という比較的大きい印刷会社があって引き受けてくれることになった。
  『創作』は七月号から一切を牧水の手で沼津から発行されることになった。この間のいきさつを六月号の『編集所便』に述べて社友の了解と協力を求めた。
 こうして牧水の沼津永住が決まり、そして終焉の地にもなるわけである。
 八月に入って条虫駆除のため沼津の稲玉病院に入院した。絶食して駆虫薬を飲んだが虫が出ないうちに身体の方がまいって貧血を起こして倒れ、目的を達しないまま十一日に退院した。
 その入院中に小田原の北原白秋から手紙が来た。彼が担当中の東京日日新聞の歌壇の選を引き受けてくれないかというものだ。
 当時、牧水が選歌している新聞雑誌は『万朝報』『国民新聞』『名古屋新聞』『中国新聞』『福岡日日新聞』『鹿児島新聞』『いばらぎ新聞』『富山日報』『越佐新報』の諸紙と『文章世界』『中央文学』『中学世界』『女学世界』『雄弁』『少年倶楽部』『明日の教育』『小説倶楽部』等であった。
 牧水は返書の中で『少し引受け数が多すぎるかと思いますが『日日』はまた別てす。そう評判を落とさずにやってゆけると思います。』と、白秋の好意を素直に受けている。
 牧水にとって選歌料が生活の支えだった。
ホトトギス
(3p目/3pの内)




 挿画  児玉悦夫
大 悟 法
(1p目/3pの内)




挿画 児玉悦夫

 牧水が沼津永住を考え『創作』の経営を自分の手に取り戻したころ大悟法利雄が若山家を訪れた。
 大悟法は明治三十一年十二月二十三日、大分県中津在の大悟法村に生まれている。大正六年に県立中津中学校を卒業する前後から歌を作りはじめ、牧水が選歌していた『文章世界』『中央文学』に投稿していた。その縁で牧水に勧誘されて『創作』社友にもなった。
 その後、大阪で勤めたり、大連の親類の仕事を手伝ったりするうちに文学から遠ざかって『創作』からも身を退いていた。一度上京したが、うまく行かず帰郷、再度上京したのが十一年七月たった。
 その直前に牧水から近況をたずねる葉書をもらっていたため上京の途中に沼津駅で下車して上香貫の若山家をたずねた。短い真夏の夜が明け切ったばかり。牧水は寝所から抜け出たままの寝巻姿で門口にしゃがんで朝顔の花を見ていた。
 連絡なしの突然の訪問に驚いていたが、投書家、創作社友としての大悟法をよく覚えていて喜んで家に招じ人れた。大悟法もえらい歌人というよりも同じ九州出身の大先輩として慕う気持が強く気兼ねがなかった。
 その日、大悟法は自作の歌五十首ほどを牧水に見てもらったが、『手先だけの細工だ』と散々の酷評で、合格点をもらったのは四首だけ。いささか得意だった鼻っ柱を折られてしまった。
 大悟法が上京のさい手にしていた金は十円だけ。汽車賃と弁当代を払ったら残金は小銭がばらばらといった状態だった。上京第一日目から金を作らなければならなかった。
 着くとすぐ博文館の『中学世界』の編集者で作家でもある白石実三をたずねた。上京直前にこの雑誌にユーモア小説の原稿を送っていたからだ。
 白石は、初対面の大悟法に快く会ってくれたうえに 『キミ、あの小説、おもしろく読ませてもらったよ。九月号に使わせてもらうことになったからね』
 と稿料二十円を渡してくれた。一枚一円で新進作家並みの原稿料だった。 その上、文なしで着京した大悟法に同情して『何か書いておいでなさい』と言ってくれた。余りの好遇に大悟法は夢心地で博文館を出てきた。
 二十円あればーヵ月は生活できる。無謀な上京だったがなんとか食えそうだ。
 八月下旬に長谷川銀作夫妻の慰労会に出席するため牧水が上京、大悟法と会った。その席で、牧水から沼津に来て仕事を手伝ってくれないかと話があった。


 東京の大悟法あてに牧水から手紙が来た。九月の初めであった。
  『大悟法君、その後失礼、あとから々々の来客で、何も手につかずにいました。とにかく、出来たらすぐ来ることにして下さい。此処に汽車賃を入れておきます。
 中学世界の助手をいま求めている由を他から聞きました。白石君にこのことを頼んで見ましたか。もっとも何だか大変むつかしい要求があるそうだが、なアにやって出来ないことはありません。要するに白石君をウンと言わすればよいのです。
 こちらに来るにしてもそのことをよく運動しておいてにした方がよいと思います。ではとりあえず右のみ、あとはお逢いしてからにします。着換の一枚も持っただけで出ていらっしやい』
 牧水は、沼津の家に寄った時から東京での生活を心配してくれていた。大悟法は早速白石に会って就職を頼んだ。彼もその気になって社の幹部に話してくれたが、中学卒業だけの学歴に難色を示して採用にならなかった。
 かわりに富山房を世話してくれたが、辞書の編集をやってくれという。地味すぎて長続きしそうにないので、その話はこっちから断わって沼津の牧水をたずねて行った。
 牧水の家には笹田という書生がいて『創作』関係の雑用をしていたが、大悟法より三、四歳下で編集などの仕事は無理だった。
 そこで大悟法に『創作』編集を手伝って欲しいということだった。大役だなあ、と思ったが興味のある仕事だった。十月号から手伝うことになった。
 牧水は十月八日から翌月五日まで信州から上州の各地を回る長旅に出た。大悟法はその間、若山家にいて留守番をしていた。
 牧水が帰宅後、大悟法はまた上京した。白石の紹介で『週刊日本』という雑誌社に入ることになったためだ。
 大正十一年には二月二十五日に『週刊朝日』が大阪朝日新聞社から創刊されたあと、四月二日には大阪毎日新聞社から『サンデー毎日』が出ている。   『週刊日本』もその勢いに乗って創刊されたもので、主幹の大野恭平の家に居候して社に通った。だが、当時はまだ週刊雑誌に読書家のなじみがうすかった。『週刊朝日』『サンデー毎日』は新聞社のバックがあるから強いが 『週刊日本』は売れ行きがぱっとしないため間もなく経営不振になり、翌年二月ごろには休刊になった。
 大悟法は、牧水に招かれて正月を若山寓て週ごしたあとしばらくは東京に居たが仕事がない。牧水に呼ばれて三月上旬に沼津に行きそのまま同家に居着くことになった。

   
つづき 第70週の掲載予定日・・・平成21年3月29日(日)
大 悟 法
(2p目/3pの内)





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