第 56 週 平成20年12月21日(日)〜平成20年12月27日(土) 

第57週の掲載予定日・・・平成20年12月28日(日)

みなかみ時代
(11p目/12pの内)




 挿画 児玉悦夫
 いよいよ坪谷を出る日が来た。五月十五日、細島港から四国の今治に向かった。ここで一、二泊して瀬戸内海に浮かぶ小さな島、岩城島に渡る。今治から尾道通いの汽船で約一時間。この島の郵便局長をしている三浦敏夫をたずねることにしている。
 坪谷を出る日の前日、母マキが坪谷の僅かな呉服物と日用雑貨を商う店から反物を買い求めた。
 十三日の夕方、旅立ちの準備をしている牧水に母が言った。
 『繁よ、東京に出たら信州の喜志さん所に行くじゃろう。ほんのワシの気持ちじゃが、喜志さんと旅人に何か買って行ってくれ。山陰に出てもたいした品物はないから、お前が東京ででもいいものを見つくろってくれればいいがー』
 『おっ母さん。そりゃあぶないよ。オレが東京に着くのは一週間か、悪くすると二週間先になる。その間に、おっ母さんのだいじな金が何に変わることやらー』 『そりゃそうじゃ。繁のことじゃかりすぐ酒になって信州にゃ届きゃせんが。おかしくてもこっちで買って送ってやった方が間違いないが、おっ母さん』
 姉のシヅまでロを添える始末。あとは大笑いになってマキが近くの商店に出かけて行った。
 牧水にとってこの母の気配りが何よりもありがたい上京のはなむけになった。二階の部屋に上ると、早速、喜志子あてに手紙を書いた。
 『−あやしき縞柄だが質はいいものだそうだ。いま縫う者がいないのでこのまま送ることになった。明日小包で発送する。それと同時に、ほんのお肴代(と母は言った)として幾らかそのきれのなかにはさめてあるそうだ。
右、受取ったら母あてに礼状を出してくれ。それはすべて平仮名で、子供によめるように書いてくれ』
 手紙をしたためながら牧水の思いは、喜志子とまだ見ぬ長男旅人が住むはるかな信州の空に飛んでいた。
 愛媛県越智郡岩城村に着いたのは十八日であった。三浦敏夫は若い人だが、この地方では知られた素封家の出であった。早くから作歌に親しみ牧水門下の一人になっていた。今回の帰省中にも度々坪谷の牧水あてに便りをし、上京の折はぜひ立ち寄ってくれるよう言ってきていた。
 三浦は初めて会う師牧水を家族ぐるみで歓迎、急がないのならしばらく滞在するようすすめて三方海に囲まれた別荘の離室に案内した。十カ月余の坪谷滞在で牧水も心身ともに疲れ切っている。好意に甘えることにした。
 鏡のように波静かな瀬戸内海に突き出た格好の三浦家別荘の離室のたたずまいは平穏そのものであった。
 海を渡る風に乗ってくる潮の香さえ甘く感じられた。この海も同じ海だろうか−。美々津の巌頭からはるかに望んだ群青の海。あの海とは吹いてくる風の匂いまで異なる。
 身体までとろけそうなゆったりした幾日を過ごしながら、片時も念頭を去らないのは海とは無縁の山国信濃に住む妻と子供のことであった。
 東京に出たら否応なしに二人を呼び寄せねばならない。それを楽しみにして故郷を出てきた。しかし、それには金がいる。
 どうして収入を得るか−。潮が引いた浜辺を素足で歩きながら思いついたのは、在郷中に作った歌をまとめて歌集を出し、それを金に代えることだった。
 歌一筋の牧水の思案の行きつく所はそれよりはかになかった。
 三浦家に滞在中にそれを仕上げることにしてノートを取り出した。走り書きにした一首一首を原稿用紙に清書していった。
 だが、それらの歌のほとんどが、これまでと全く調子を異にした歌であった。
  納戸の隅に折から一挺の大鎌あり汝が意志をまぐるなといふが如くに   
 わが悲しみは青かりき水のごとかりき火となるべきかはた石となるべきか 
 歌の約束を無視し、自分の意志だけがむき出しにされている異様な歌であった。父の死の前後の苦境、それを赤裸々にうたっている。あの当時はそれを気にとめる余裕がなかった。
 しかし、いま、三浦家の人たちの温かいもてなし、瀬戸の静かな海に心身をひたしてこの歌を読み返してみると、息苦しいまでの圧迫感があった。
 気を静めるために万葉集をひもといてみたが、感情のたかぶりを覚えるばかりだった。仕事が渉どらないばかりか食事さえ進まぬ状態に陥ってしまった。
 それを見た三浦が同情して自ら清書を買って出る始末であった。
 彼の協力を得てようやく整理をすませて岩城島を離れた。二十二日の朝であった。
 尾道に渡って明石に住む歌人小倉暮笛を問い、神戸三の宮の長田方に数日滞在して大阪、京都、それに浜松に寄って六月十七日朝、ようやく東京にたどりついた。
 坪谷を出てから三十四日目であった。
 岩城島でまとめた歌は籾山書店から出版することに決め、歌集『みなかみ 』とした。
 同月末には小石川区大塚窪町に一戸を借り、待ちわびていた喜志子と旅人を呼び寄せた。
 牧水は旅人をあやしながら泣いた。
みなかみ時代
(12p目/12pの内)




 挿画  児玉悦夫
「創作」復活
(1p目/3pの内)





挿画 児玉悦夫
 妻子を呼び寄せた以上毎月固定した収入の道をこうじなければならない。  早速、八月から『創作』を復刊することにした。切羽詰まっているから仕事もこれまでになく精力的に進めた。飛騨にいた平賀春郊、三崎港の北原白秋、信濃の山崎斌、岩城島の三浦敏夫らに六月末から七月初めにかけて原稿依頼状を送った。
 太田水穂には上京後すぐに訪問して相談したおりに『応援するから腰を据えてやってみたまえ』と、励まされていた。
 計画して一カ月後の七月末には復刊第二号が完成していた。今度の『創作』は牧水が編集から経営の一切を担当、牧山書店を発売所として一般書店に配本することになった。
 『創作社より』の後記の中で牧水は 『−先ず本号を見て多少なり我等のこの事業に同感し、同情してくれた人々があったならば、私は折入ってその人にお願いする。即ち、各自一冊ずつ自分以外の人に本誌購読を勧誘してほしいことだ。そうすれば本号が百部売れたとして来号は忽ちその倍額売れることになるからである』
 自分の周囲に一人の同志をつくるつもりで誌友倍加運動に協力してほしい、そう依頼している。
 後に、牧水が大悟法利雄らに自慢して語った販売方法で、彼は『私の独創だよ』そう言っていた。
 復刊号には、室生犀星、萩原朔太郎、邦枝完二、白鳥省吾、山村暮鳥、小川水明、和田山蘭、四賀光子、若山喜志子、春郊、水穂らが名を連らねた。
 九月号には、白秋の評論『破調私見』が巻頭を飾ったはか、七月三十日に没した伊藤左千夫について斎藤茂吉が『伊藤左千夫先生が事ども』を書いた。
 九月中旬には歌集『みなかみ』が刊行された。本扉の次に『本書を亡き父に捧ぐ』と献詞をのせ、父立蔵の写真一葉と坪谷の生家、生家から見た尾鈴連峯坪谷川渓谷の写真を入れている。
 収録された破調の歌を主とした歌の一首一首に父立蔵、生家、故郷の山と川への思いが悲喜こもごも秘められている。収められた写真は牧水の十カ月余の苦悩煩悶の象徴でもある。彼にとって記念すべき歌集であった。
 『創作』の発行は順調であった。だが、売れ行きの方は彼の独創的″販売方法をしても思わしくなかった。
 毎号返品があって牧水、喜志子の顔から明るみを奪っていた。
 十一月号の編集をすませた牧水は、十月下旬、伊豆下田の沖にある神子元島に行った。
 灯台寺の旧友をたずねる旅だった。
 伊豆下田港から神子元島に渡ったのは十月二十八日。二十六日夜から翌日にかけてこの地方を襲った暴風雨の余波で海がしけていた。
 灯台通いの小さい船は白い牙をむく怒涛に木の葉のようにもまれ、一木一草とてない岩島に船頭の神業のような操舵て接岸、絶壁をはうようにして降りてきた灯台守古賀安治に迎えられた。
 彼は佐賀県出身の金満家の息子で、牧水と一緒に早稲田大学に人ったが、学校がいやになって退学した。その後、島を買って牛や鶏を放し飼いにしたり、米国に渡って放浪生活をするなど、無頼とも言える生活のあげく灯台守の仕事についた男だった。
 牧水は飲料水や食料品などは一週間に一度下田港から来る便船で補給すると聞いていたので、ダリヤの花束と酒をしこたま仕込んで行った。
 古賀は新婚間もない妻と六畳の部屋に住んでいた。その下に若い独身の職員一人がいた。牧水は、古賀と同居の予定だったが、多くは宿直室で寝ころんでいた。
 人界から遠く離れた孤島の生活は静寂。波と風の音と、頭上を舞う海鳥の声しかなかった。牧水は、ここで静かに物を考え、原稿を書くつもりだった。
 だが、何の刺激もない島の明け暮れは頭脳の働きまで停止するものらしい。読書も書き物もできず、ただぼんやりと過ごした。
 部屋から出るのは岩角から釣り糸をたれるおりだけだった。
 ある日、釣りをしていた牧水の傍にきて古賀が言った。
  『若山君−。君も喧噪な東京であくせくしていないで、いっそここの灯台守になってはどうだ。その方が本当の文学の修業もできると思うんだがな』
 唐突な誘いであった。だが、牧水と比較にならぬ程幅広く世間を経験した古賀の言葉には人生の一番深い底までとどく響きがあった。牧水の心をあやしく揺さぶった。
  『そうだなあ。考えさせてくれ』。
 即答できる話ではなかったが、三年か五年、喜志子、旅人の親子三人、いつも何かを追いかけ、追っかけられているいまの生活から説出して、海と空しか眼に入る物のないこの岩島で暮らしてもいい。そう思った。
 幾夜か考えぬいたが、結局は思い切れなかった。一週間後、島に着いた連絡船で下田港に帰った。古賀はそれでも『気持が変わったらいつでも来いよ』。そう言った。
 東京の生活は相変らず苦しい。年の暮れには仕事部屋を理由に下宿屋の一室を借りた。だが、もっと切実な理由は借金取りからの逃避だった。どん底の貧乏暮らしが続いていた。

   
つづき 第57週の掲載予定日・・・平成20年12月28日(日)
「創作」復活
(2p目/3pの内)





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