第 50 週 平成20年11月9日(日)〜平成20年11月15日(土) 

第51週の掲載予定日・・・平成20年11月16日(日)

「創作」時代
(8p目/10pの内)




 挿画 児玉悦夫
 里子の養育費、病気の治療費、毎日の生活費。どっちを向いても金銭に追い詰められた状態の牧水であった。
 それに『創作』の経営が思わしくなく廃刊のうわささえ出ている。東京にいる以上は責任上ほおっておくことはできない。四十四年二月号から牧水と佐藤とで編集することになった。
 それを機会に西村の東雲堂から『創作』を独立させ、飯田河岸の印刷所日英舎の二階を借りて『創作社』の看板をかかげてここで編集にあたった。
 仕事は元にもどったわけだが、牧水の煩悶は相変らず続いていた。このため泥酔のあげく道ばたに寝ころんでいて警官に旅館に連れていってもらう失態もあった。
 また、坪谷からは『ハハ牛トク、スグカヘレ』の電報がたびたび届いていた。姉スエに約束した送金も、両親を連れて上京するための帰郷もほごになっている。
 ごうをにやした姉たちの苦肉の電報であった。河野佐太郎ら親類からは『今度帰らなければ一生一切の縁を切る』と、これ炭てに増して厳しい手紙もきている。
 だが、今の牧水は二進も三進もいかない。
 いかないから切ない。その痛みを忘れるために乱酔の夜が続いていた。
 小核子との恋もついに終局を迎えた。親類
問て相談のあげく故郷に連れもどされることになった。
 千葉の里親に預けた女児は四月上旬、死亡したという知らせがあった。
 飯田河岸の日英舎の二階に設けた『創作社』に牧水は起居していた。ここは表から見ると二階だが、濠に面した裏側は三階になっていた。
 三階の琉瑠窓つつみ媒煙のにほへるなかに ひとり酒煮る
 五年にあまるわれらがかたらひのなかの幾 日をよろこびとせむ
 この部凰て四十年から四十四年爽ての園田小枝千との悲恋に終止符が打たれる日を迎えた。以後、牧水と小核子が再び会う日はついになかった。
 かなしくもいのちの暗さきはまらばみづか ら死なむ砥素をわが持つ
 死にてのちさむく冷ゆれど顔のさま変らず といふ砥素はなつかし
 歌集『路上』に砥素の歌五首がある。
 牧水の胸の底に深い傷跡を残して去った小枝千は、大正七年十月に夫園田直三郎と正式に離婚、同九年に従弟赤坂庸三と結婚する。
 数人の子供を得て平穏な人生を送り、昭和四十七年三月ハ日、数えの八十八歳で永眠した。庸三は翌年十二月十四日、没している。
  五月の初め、飯田河岸の日英舎の二階から淀楠町柏木の土屋方に変わった。前月に信州から上京している山崎斌の親類の家で彼の世話によるものだ。
 佐藤緑葉も同じ頃に牛込区横寺町に転居し、
 『創作』編某所を同家に移した。
 創作社は前月九日に麹町紀尾井町清水谷公園内の皆香園で初の『創作誌友会』を開いた。古井勇、邦枝完二北原白秋らも参加して予想外の盛会になった。
 それだけ『創作』の発行もかつての勢いを取りもどしてきていた。それより先、二月三日には初めて石川啄本宅を訪ねた。これ爽ても歌を寄稿してもらっている。
 編集復帰後改めて原稿を頼む用性てたずねたものであった。
 だが、小石川久堅町の小さな庭にハ重桜の老樹がある借家に往んでいた啄木はその頃腹膜炎を患っていた。
 このため、土岐哀果と啄木の二人の編集で出す予定の新雑誌『樹木と果実』の発刊も大幅に遅れている始末だった。一応それでも寄稿の承諾はしてくれた。
 しかし、この容態ではむつかしかろう。そう感じて石川家を辞去した。
 牧水にはその頃から第四歌集『路上』出版の計画があった。太田水穂の紹介で博信堂書店から発行の予定で、五月中には校正も終わ
っていた。
 書店の都貪て結局出来上がったのは九月中旬になったが、苦悩と煩悶続きの中から生まれた歌集だけに牧水の暗い胸に灯をともす歌集になった。
 歌集には四十三年一月から四十四年五月までに詠んだ四百八十三首を収めた。自序に  『−昨一年間に於けるわが生活の陰影である。透徹せざる著者の生きやうは、その陰影の上に同じく痛ましき動揺と朧朧を投げて居る。あての無い悔恨は、これら自身の作品に対する時、ことに烈しく著者の心を刺す』 と書いた。
 巻頭の歌は『海底に限のなき−』である。乱酔のあげくの病気。そして放浪の旅。小核子との別れ。故郷への思い−それらの歌の一言つがこの一年余の牧水の落碗を物語っている。
 なお耐ふるわれの身体をつらにくみ骨も包 けよと酒をかさばる
 旅人は松の根がたに落葉めき身をよこたへ ぬ秋風の吹く
 石拾ひわがさびしさのことごとく乗りうつ れとて空へ投げ上ぐ
 病む母をなぐさめかねつあけくれの庭や掃 くらむふるさとの父
 歌は限りなき哀愁の淵をなしている。
  

 
「創作」時代
(9p目/10pの内)




 挿画  児玉悦夫
「創作」時代
(10p目/10pの内)





挿画 児玉悦夫
 『路上』を出版して間もなく雑誌『創作』の編集から牧水と佐藤緑葉が手を引くことになった。
 牧水、緑葉の編集方針にあきたらぬものを感じていた東雲堂の西村から、改革案が出されたことから即時に『創作社』の解散を決議したものだ。前年の三月、現歌壇に新風を吹き込んだ『創作』は一年八ヵ月、二十号を出しただけで姿を消すことになった。
 最終号(十月号)の巻末に牧水と緑葉の連名による『告別の辞』と、牧水個人で『本誌歌壇に対して』を載せたが、その中で、新たに『自然社』を設立して雑誌『自然』を発行することと、『創作』は今後北原白秋によって編集されることになろうーと書いた。
 東雲堂からは翌十一月号から白秋編集の高踏的な文芸雑誌『朱槃(ザンボア)』が創刊された。上田敏、永井荷風、与謝野鉄幹、晶子、高村光太郎、三木露風らが寄稿し、太正二年五月爽てに十九冊が発行される。
 牧水の『自然』は、出版してくれる書店も出版社もないからまず資金作りから手がけねばならない。
 このため横浜に三浦某という友人をたずねて行きここにしばらく滞在することになった。
  『創作』編集をやめたから金の入る目あてがない。雑誌発行の資金の前に毎日の寝食を確保しなければならない。
 横浜の滞在はそのためであった。ヨ浦某は外人マドロスたちを相手にいかがわしい仕事をしていた。約一ヵ月の同居中、彼らと酒に溺れ、昼はひとり波止場や公園に行って無為の時間を過ごした。
 この時期が牧水にとって最も暗い時期だった。幾度か波止場から身を投げて死のうと思ったこともあった。
 横浜の波止場の端に烏居り我居り烏われを 逃れず
 くだもののごとき港よ横浜の思ひ出は酸く 腐り居にけり
 十一月二十七日、富田砕花が訪れたのをしおに翌二十八日に帰京、平賀春郊の下宿東雲館にころがりこんだ。
 そして十二月初めに友人安成貞雄と一緒に 『やまと新聞』社会部に入社した。
 月給二十五円。どうにか食うには困らないことになった。
 だが、酒とは相変らず縁が切れない。同宿の平賀とほとんど毎夜飲んで歩いた。
 乱酔のあげく電車の軌道内に寝込んで電車をとめてしまい、仲間から『電留朝臣』(でんとめあそん)のニックネームをつけられたこともある。
 酔余、外濠に飛び込んで泳ぎ回り、警官から大目玉を食ったのもこのころだ。 
  再度の新開記者生活も長くは続かなかった。生活は安定するが、短歌のために一生をささけようとする素志を貫徹するには何かと不都合があった。
 自然社の設立と雑誌『自然』の発行。この計画を真剣に進めるために四十五年一月二十日に新聞社をやめた。背水の陣で取り組む覚憤てあった。
 同宿の親友平賀春郊、それに昨年秋から知り合いになった郡山幸男が相談相手になった。郡山は、出版の経験があった。牧水の『牧水歌話』を出版する準備を進めていたが、『自然』発行にも手を借すことになっていた。
  『自然』を売り出すにはまず確実に購読してくれる地盤が必要だ。その地盤を山崎斌や岩崎樫郎らがいる信州に求めることにした。
  『牧水歌話』が郡山の文草堂書店から出だのが三月初め。僅かばかりの金を手にして牧水はこの月の十六日、信州に旅立った。
 今回の信州旅行にはこのほかにもっと重要な用件があった。
 牧水は芸術一途に打ち込むためこれ集ての絶望的な生活態度から立ち直る決意でいた。そのために結婚を真剣に考えていた。
 その結婚相手として太田喜志子を意中においていた。
 前年の夏、小石川著荷谷の太田水穂方で牧水は喜志子に会っている。彼女は長野県東筑
摩郡広丘村字吉田に、明治二十一年五月二十八日、太田清人の四女として生まれた。
 太田家は数百年続いたこの地方切っての旧寓て、祖父の代果てずっと村の庄屋を勤めていた。
 八入兄妹で、姉三大兄一人と弟二人妹▽人があった。姉三人が早く嫁いだため十歳ごろから二十一、二歳のころまで、病弱の母を肋けて一家の台所をあずかっていた。
 このため松本にその当時新設された女学校に人れてもらえず小学校の補習科で学んだ。
 小学校の受持教師に小松秀一がいた。彼は広丘村出身の太田水穂や隣村の和田村生まれの窪田空穂と親交があった文学青年であった。
 小松の感化や、もともと母親や姉たちが歌や文字を愛したこともあって喜志子も析りにふれて歌を作ることがあった。
 補習科を卒業したのが四十年三月。翌月から裁縫教師として学校に勤めることになった。そして、余暇をみては待や歌を作って河井酔著の『女子文壇』に投稿するようになった。
 横瀬夜雨選の詩壇では、花形の▽人となり、今井邦子(当時山田)、生田花世(同長曽我部菊子)らと知り合った。
 いつか喜志子は文学の道に進行ことを夢見ていた。そして兄が結婚したのを機会に四十四年六月、太田を頼って上京した。

   
つづき 第51週の掲載予定日・・・平成20年11月16日(日)
結   婚
(1p目/8pの内)





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