第 5 週 平成19年12月30日(日)〜平成20年1月5日(土) 

第6週の掲載予定日・・・平成20年1月6日(日)

  城 山 の 鐘
  
(1p目/4pの内)









        挿画 児玉悦夫
 明治二十九年三月、牧水は坪谷尋小を一番で卒業した。“指輪”事
件の日清戦争は前年四月十七日の下関講和条約の調印で終結して
いる。
 当時、村内はもちろん隣村にも高等小学校はなかった。他の卒業生
はそれぞれ家業についたり、就職したりした。だが、若山医院の三代
目を継ぐべき牧水はそうはいかない。
 結局、彼ひとり笈(きゅう)を負って延岡に出ることになった。
 東郷村では、三十年七月に羽坂、迫野内、小野田の尋小三枚が合
併して高等科を置く計画が起きた。だが、それぞれの誘致運動で話が
まとまらず、三年間もみにもんだあげく、三十三年七月に山陰尋常高
等小学校が設置されている。当時の教育事情はそうしたものだった。
 牧水が延岡高等小学校に入学したのは、新学期始業からーカ月遅
れの五月一日であった。恒富村三ツ瀬(延岡市恒富)の父の知人、佐
久間清久方に下宿した。佐久間夫妻に子供がなかったので、牧水は
実子のようにかわいがられた。
 学校では、甲乙二組のうち乙組に入れられた。級担任は日吉昇。宮
崎県尋常師範卒、二十九歳の訓導。師範卒業の翌年、東京教育社募
集の日本地理歌の二等に当選したほか、日州教育会雑誌の編集に
関与、ニ十八年には「宮県地誌』の編集にたずさわるなど、延岡地方
では随一の文筆家として知られていた。
 宮崎県尋常師範学校が開校したのが明治二十八年二月二十八日。
はじめ高等と中等に学科を分け、のちに小学校教育講習科を設けた。
定員は高等、中等が七十人。小学校が六十人だった。女子部が設け
られたのが明治四十年、定員二十人てあった。
 難関中の難関てあった県尋常師範卒で、文筆家であった日吉訓導
が、牧水の文学への眼を大きく開かせることになった。卒業までの三
年間、ずっと日吉が牧水らを受け持っているから影響はひとしおてあ
った。
 在学中の学業成績は五十人くらいの組の中で常に二,三番を維持し
ていた。特に国語、作文がよかった。算術もよくできた。これは延岡中
学校に進学しても変わらない。
 からだは小柄だったが、スポーツも苦手ではなかった。坪谷の山野
を自然のままに走り回ったせいか、背の低いグループではいつも徒走
競争のトップを切っていた。ここでも相当にわんぱくぶりを発揮した。
 二年生の終わりのころ、学友の村井武と城山に登った。牧水は旧
城跡のこの山を手ごろの散策の場所としてよく登った。ところが、この
日、思わぬ大冒険を企てることになる。
 桜と放牧場の新観光地造りが進んでいる高平山や、テレビ塔があ
る愛宕山まてはいかないが、城山の鐘つき堂からの展望もかなり開
けている。
 城下町の家並みの先に広がる太平洋。それだけでも少年牧水ら
の夢と希望をふくらませるに十分であった。
 この日も、村井武とふたり、沖をゆっくり遠ざかり行く汽船を眺めな
がら「海」と「旅」を語り合っていた。
 そのうち、さも重大な打ち明け話でもするように村井に告げた。
  『実はね。二日ほど前に母から手紙をもらった。都農の義兄(あ
に)といっしょに金比羅参りをするが、土産に何が欲しいか。欲しい
ものがあったら、細島港の回船問屋日高屋に手紙を寄越すよう
にって−。だから、考えつくままあれこれ言ってやったつよ』
 村井は、のちに建築技師になり、沼津の牧水の家を設計する。
 ちょっと思慮深げに目をつむっていたが、思い切ったように言った。
  『繁ちゃんよ。お前もお母さんについて行ったらどうだ。お土産な
んか買って来てもらうよりおもしろいじゃないかー』
 牧水は不意をつかれた気がした。それは思い及ばなかったこと
だ。
  『そりゃあ、連れて行ってくれればね。でも学年試験の最中だし
−』
 しぶる牧水をおさえるように強く言った。
  『−試験なんかどうでもいいじゃないか。お前は成績がいいん
だから、先生だって一度くらい試験を受けなくったって落弟はさせ
んよ。そうに決まっているよ』
 二人の少年の間で、こんなやりとりがあったあげく、牧水は太冒険
を試みることにした。
 京の清水寺の舞台は知らない。故郷の西林岳の絶壁から飛び降
りるくらいのー大決心であった。
 決まれば早い。学校には、母が急病で迎えが来た、と友人に伝言
させた。下宿先の佐久間には置手紙した。翌早朝、こっそり抜け出
して二十四、五`もある細島港までの道を急ぎに急いだ。
 この道を泣きながら駆け続けた−と言うから牧水の興奮ぶりも知
れよう。
 日高屋には日が高いうちに着いた。母たちが着くまでの時間の長
かったこと。期待と不安で胴ぶるいがとまらなかった。
 夕刻、母と義兄河野佐太郎が着いた。マキは思いがけぬ息子の
顔に、わが眼を疑った。
  『この機会をはずしたら−』
 そう思って冒険に踏み切ったわが行為を正当化しようと、息子は
大いに弁舌をふるう。
 だが、気丈な母には通じない。
城 山 の 鐘
  
(2p目/4pの内)










挿画 児玉悦夫
城 山 の 鐘
  
(3p目/4pの内)










挿画 児玉悦夫

  「繁、おめえは、何しに延岡に行っているのけ。勉強じゃろが。
大切な試験も受けんで遊びに行けるもんかどうか、考えんでもわか
るじゃろがー』
  『さあ、今から夜通し走ってでん帰らにや。オレが延岡まで送って
やるから−』
 五木松峠のころの母と子ではなかった。マキは牧水のわがままを
許ざない。それに今度の金比羅参りの費用だって、娘むこに負担を
かけている。そのうえ牧水までが−。
 だが、河野佐太郎はおうようだった。日ごろからわが子のようにか
わいがっている義弟の思い入れが頼もしくさえ見えた。
  『おっかさん。いいが。繁がいれば、長旅もあんどせんで行ける
が−』
 顔なじみの宿の番頭まで仲に入って取りなしてくれた。
 余りの母の見幕に牧水の迷いはさめていた。母の怒りに無理はな
い。ほんとに歩いて延岡に帰るつもりであった。
 しかし、佐太郎と番頭の取りなしでマキの心がゆるんだ。
  『ほんとにおめえは、ぼっけもんじゃから』口調は厳しいが、怒り
は目の色から消えていた。
 金比羅参りに続いて大阪見物。生まれて初めての大旅行が実現
した。
 城山から長浜の沖を通る汽船をながめて描いた二少年の夢。そ
れがひょうたんから駒が出た、結果になった。
 欠席日数十七日間。学業成績に多少の影響はやむをえない。そ
れより、もっともっと広い世間で多くのものを学び取った。
 若山牧水全集(雄鶏社)第十一巻の日記編は、明治三十五年一
月一日からの所載。それ以前の日記は残っていない。
 牧水の日記は実にきちょうめんに記述してある。坪谷時代は知ら
ず。親もとを離れての毎日。収録以前も恐らくは克明につけていた
のであろう。
 それがないのはいささか残念である。
 それでも、金比羅、大阪の長途旅行が彼の心に大きい影響を及
ぼしたであろうことは想像に難くない。
 たとえば細島港から四国への日向灘、四国と大阪をへだてる瀬戸
内海。
 牧水が初めて『海』を見だのは、東郷の楠森塚からの遠望であっ
た。
 その後、とどろく波音、くだけ散る白波。雄大な海の実態に直接ふ
れたのは美々津。七、ハ歳のころである。
 水平線のくろみの彼方にどんな世界があるのかー。幼な心に胸と
きめかせた広大無辺の海を、彼は越えたのである。
 この船旅て牧水は『海の声』を聞いた。

 金比羅・大阪の旅から帰った牧水は、下宿を恒富の佐久間方から
本小路の山辺方に変わった。
 本小路は、城山の北ふもと。旧藩時代の上級家臣の旧屋敷やそ
の跡が並ぶー等地である。
 転居の理由はさだかでない。ただ、このころから彼の文学へのあ
こがれが高まっていた。
 このにわかな文学への傾斜が、今回の旅とどう結びつくか−。
想像の域を出ない。
 明治三十二年三月、牧水は高等小学校三学年の課程を終えた。
 ここに貴重な資料がある。
 級友の山本七郎が写し持っていた高等小学校時代の牧水の学業
成績表。『若山牧水新研究』(大悟法利雄著)によると、次の採点に
なる。
 読10、作10、習9、算8、地8、歴8、理8、画9、体9、唱8、
平(均)9。
 山本は家庭の事情で三年生の五月に退学している。だから、この
成績表は多分二年生の時のものであろう。
 当時の同級生は男三十四人、女十二、三人。山本は成績優秀で
首席、他に山本に匹敵するすぐれた女生徒がいて、牧水は三番くら
いだったようだ。
 後年の牧水からすれば読(国語)、作(作文)の10は当然の成績と
言える。また苦手かと思われた算術も8。だから平均点9の全体に
バランスのとれた評価になっている。
 画の9も、いま東郷町の牧水記念館に展示されている水墨画をみ
ると、なるほどとうなずける。
 学力優等品行方正の生徒牧水をみる。
 この年に、県立延岡中学校が創立された。
 宮崎県に公立中学校が創設されたのは、明治二十一年。現在の
宮崎市に宮崎県尋常中学校が誕生している。
 延岡中学校は都城中学校とともに、十年後の開校になる。
 ただ、現在の大宮高校の前身の旧宮崎中学校が、その名称にな
ったのも三十二年である。
 県の中、南、北部にそれぞれ一校ずつ、県立中学校が配置された
わけである。
 延岡にはその前に変則中学があった。
 内藤藩の藩校『広業館』が、明治五年十一月二十五日の文部省
布告で廃校になった。
 子女の教育の荒廃を憂えた地元の有志らが協議、翌六年一月、
藩校の建物を利用して『延岡社学』を開設している。
 越えて八年一月十七日。変則中学として許可を受け、同二十二日
には校名を『亮天社』と改称した。
 県北には県立中学校創設以前から、中等教育機関の歴史があっ
た。 亮天社は明治三十二年に閉鎖した。
城 山 の 鐘
  
(4p目/4pの内)










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