第 4 週 平成19年12月23日(日)〜29日(土) 

第5週の掲載予定日・・・平成19年12月30日(日)

  五 本 松 峠
  
(3p目/4pの内)










    挿画 児玉悦夫
  若山一家はこの小川に約四年間住んだ。学齢期に達した牧水が
 小学校に入学した。しかし学校までの道のりが四`ある。牧水は学
 校に行こうとはしなかった。
  叱られたあげく、家は出ても途中で遊んでいて、夕方ころに帰って
 きた。登校拒否は通学路の遠さだけではなかったと思われる。
  両親もこのわがままな一人息子に甘い。
  『こんなカンの強い子を余り叱ってもよくあるまい』
  親の方がなんなく?妥協してしまった。以後は家にいて両親や姉た
 ちに何かと教わることでお茶を薗す始末であった。
  しかし、いくら甘い両親といってもそのまま休学ではすまされない。
 たまたま二番目の姉トモの結婚相手、今西吾郎が東郷村の羽坂尋
 常小学校の校長をしていた。
  羽坂は山陰から1キロ余り。本当は、今西方に寄宿されれば問題
 なかったのだが、何しろ当時の校長住宅。狭くて同居できない。
  そこで、山陰の叔父純曽宅から通学することになった。
  純曽の妻は歓迎しなかった。当時の牧水であれば、この血のつな
 がらぬ叔母ばかりを責められまい。それも 『繁がぬいだ下駄を見て
 も胸くそが悪い』 と言ったほどだから、うまくいくはずがなかった。
  このうわさが小川のマキの耳まで届いた。
  怒ったマ手は、すぐさま牧水を自宅に連れ戻した。元の木阿弥にな
 った。
  牧水にとって、小川の生活はそう愉快な日日ではなかった。立蔵、
 マキにとって、牧水の就学問題の他にもおもしろくないことがあった
 のだろう。その年の秋、四年間の小川生活を切りあげて坪谷に帰っ
 た。
  もともと、永住のつもりではなかった。一家あげての出稼ぎ、一時し
 のぎのつもりだったから未練もなかった。坪谷の人々からのすすめ
 もあってのことだから、むしろ帰る足取りは軽かった。
  だが、小川の人たちが、若山一家に対して不愛想であったと言う話
 はない。
  二十年前、この間の暮らしぶりを取材に小川をたずねている。
  当時のことを覚えているのは、あのお婆ちゃん以外におるまい、と
 聞いて、小川尾沢集落の奈須ベンさんを問うた。当時八十六歳であ
 った。
  この土地はもともと裕福で、人情のあついことで知られている。世
 話役さんが、若い記者だった私をわざわざベンさん宅まで案内してく
 れた。
  穀物を干す広い庭と、白かべの倉庫を持った中堅農家であった。
  ベンさんは耳は遠いが、昔の記憶は存外に鮮明であった。
  『じゆうぞうさん(立蔵のこと)は、悪気のない人じゃった。おっかさ
 ん(妻のこと)はおマキち言うて、そりゃあべっぴんさん“て田舎にい
 るような人じゃなかった。娘さんにおシヅさんち言うておりやった。
 べっぴんさんじゃったが惜しいこつに足が悪うてな。じゅうぞうさんは
 一年か一年半かおりやったどかい。中くらいはどの人で、酒は好い
 ちょりなさるごとあったのオ』
  残念なことに当の牧水は彼女の脳裏になかった。若山家の坊っ
 ちゃんは彼女より七、八歳も下になる。当時としては開きが大きい。
  印象をとどめぬのも無理はない。
  初めは『おばあちゃん。娘のころに、近所に若山という医者どんが
 おんなったじゃろ』
  土地の世話役が代わりに聞いてくれたが 『知らん』 『おぼえちょ
 らんのう』 と取りつく島もなかった。
  それが、若山一家の名前を耳に口をつけて繰り返すうちに脳裏に
 浮かんだ。マキ、シヅのことは昨日のことのように印象を語り、なつ
 かしがるふぜいであった。
  『坪谷からきた医者で」 と私が言ったら、
  『えーえ、じゆうぞうさん。あんたが坪谷の?』 と、にわかに頑に
 かぶった手ぬぐいをとったのには驚いた。立蔵と錯覚したものだ。
  『あそこに、いなさったの』 老婆が指さすあたり。今は畑地になっ
 ていて屋敷跡をしのぶ柱石ひとつない。
  小川の清流をすぐ前に、右手に権現山、左手に珍妙な姿のとん
 がり山。背後は東郷村境の山が連らなっている。坪谷とまではい
 かずともやや似た峡谷の美観がある。
  通学しない牧水に同年齢の遊び仲間はいなかった。だが、『この
 子の将来は」と、少々手こずる思いもした藤田丑五郎が、その後
 はカンシャク小僧の相手をつとめた。
  牧水も親しんで釣りに連れて行ってもらったりもした。
  だが、終日、彼の相手になってくれたのは、母と姉シヅ。それに魚
 影の濃い渓流と雑木林、田畑のあぜや土手であった。
  現在の小川は、九電大内原ダムの完成で、小川吐からかなり上
 流まで人造湖になっている。牧水が釣り糸をたれたころとは、自然
 のたたずまいも大きく変化した。
  もちろん、ベンさんは早く他界した。若山医院が、この地に出張所
 を置き、約四年間は医院を開いて常駐したことが、土地の人々の
 話題に上ることも絶えてあるまい。
五 本 松 峠
  
(4p目/4pの内)











挿画 児玉悦夫
おさなかりし日
 
(1p目/2pの内)










挿画 児玉悦夫

  若山医院は坪谷に復帰した。牧水もようやく坪谷尋小に入学し
 た。明治二十五年秋。途中編入になるわけだ。
  同級生は男女合わせて約二十人。奈須ベンさんを取材したころ。
 この中で、坪谷本村の日高与吉さん=当時七十七歳=が生存し
 ていた。以下は、卒業までの四年間、机を並べた同級生が語る当
 時の若山君″像である。
  『頭脳はち密で記憶力がすぐれていたのを覚えている。それでも
 秀才ぶるようなところはない。おうような、物にとんちゃくしない男だ
 った。顔や姿は父親似、気性は母親似ではなかったろうか。たしか
 ダゴ口で、言葉がはっきりしなかったように思う』
  それに魚釣りや、山芋掘りが上手だったことが出た。川遊び、山
 遊びのことは彼の少年時代の印象として必ず語られる。これも父
 母からの影響である。
  鮎(あゆ)釣り、山遊び。後に歌や随想のなかでなつかしく思い出
 されている。
  そのころの話には、欠かせないエピソードがある。与吉さんは
 指輪″事件と言った。
  三年か四年のころ。ちょうど日清戦争のおりの話だ。昭和ヒトケタ
 より年配者には、日中戦争から太平洋戦争にかけて苦い思い出が
 伴うぜいたくは敵だ″が、その当時も盛んに言われたらしい。
  ある日、同級の女生徒の一人が、母親の指輪を教室に持ってき
 ていた。得意気に他の女生徒に見せびらかしている。
  それを見つけた男子生徒の一人がそれを無理やり取り上げた。
 牧水が、使えなくしておかなくちゃまた持ってくるかも、と言うんで石
 垣のところに持って行って、石でたたきつぶしてしまった。
  与吉さんは
  『若山君は、そんな正義感の強い、思い切ったことをする男だっ
 た』
  と、語る。
  妻のカノさん=同七十四歳=も、 『牧水さんじゃったかどうか、よ
 う覚えちょらんが、私も指輪をとりあげられた一人じゃった』
 と、傍らで合いづちを打った。与吾さんの話には歳月と、世に知ら
 れた同級生への思惑から多少の誇張があろう。だが、そうした事
 実が少年牧水の周辺にあったことは間違いない。
  坪谷は天領であった。土地の気風によく言えば闊達(かったつ)、
 悪く言えば乱暴なところがあった。
  有馬藩時代の元禄三年(一六九〇)、山陰の農民千五百人が高
 鍋藩に逃散(ちょうさん)した山陰騒動の東郷村一般の村民気質と
 一味異なっていた。
  その中で自然児牧水は育っていった。

   小川への移転のころ、そして在住時代。さらに坪谷に帰ってからの
 少年牧水。
  医者の一人息子として、わがままいっぱいにふるまったかに見え
 る。  カンシャク持ちでヤンチャ。確かにその性向はある。
  だが、後年の彼をしのばせる佳話も多い。
  坪谷尋小時代の彼は、日高与吉の話にもある。学業成績優秀、品
 行もよかった。
  小川時代と違って友だちが多く、そのだれとでもへだてなく遊んだ。
  円満な子だった。
  夏のこと。学校から帰ると仲間と連れだって毎日家の下の曲り淵
 (ぶち)で泳いだ。
  多くの子供らは、川原に降りるや着物、下駄をぬぎ捨てて水に入
 った。 牧水はひとり違った。
  ぬいだ下駄をまずそろえ、その上にきちんとたたんだ着物と帯を置
 いた。川風に飛ばぬよう小石ものせた。
  『わしどんとはちどちょったの』
  与吉はそう言って笑った。
  母マキは士族の出。長田家での厳しいしつけを息子に伝えたまでで
 ある。 後年の牧水もそうである。
  酒と旅に明け暮れた生活から、豪放らいらく、野放図、の印象を受
 けがちだ。
  その実、きちょうめん、繊細な人であった。
  日記、作歌の苦心の跡が裏付ける。
  その両面を包みこんでいて不都合を感じさせない人。後年の牧水を
 幼時にしてかい間見させている。− 文学においても母の妹むこ、つ
 まり牧水の母方の叔父に同村の昌福寺の住職金田大珍和尚がい
 た。無類の好人物で読書家だった。 珍しい本を入手すると若山家
 を訪れ、母や姉に読んできかせた。
  幼い牧水に内容を理解する力はない。ただ、囲炉裏火に丸い顔を
 赤々と照らされて一心に朗読する叔父。
  その光景が心に焼きついた。
  彼が初めて小説を知ったのも大珍和尚ゆえだった。和尚持参の報
 知新聞の連載小説『朝日桜』 (村井弦斎作)のふりがなを拾い拾い
 読みおおせた。
  小説中の駒雄と静子の恋愛物語に胸ときめかせたーとのちに回想
 する。
  牧水は延岡中学校時代、休暇で帰省すると近所の子供らに本を
 読んできかせた。
  『繁あんちゃん』は、進学者が彼以外になかった坪谷では、少年
 たちの尊敬の的だった。
  あこがれの『中学生』から本を読んでもらえる。胸をおどらせて彼
 の帰省を待っていたものだ。
  その時、囲炉裏の傍の大珍和尚の火に揺らぐ大きい影が牧水の
 脳裏にあった。
おさなかりし日
 
(2p目/2pの内)










挿画 児玉悦夫
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