第 31 週 平成20年6月29日(日)〜平成20年7月5日(土) 
第32週の掲載予定日・・・平成20年7月6日(日)

病 む 日
(15p目/16pの内)




  挿画 児玉悦夫
 (閑話1)玉川滞在中、親身になって療養生活をたすけてくれた内田もよには後日談がある。
 牧水ともよが知り合ったのは、小野葉桜と交際があった佐藤りき子のことで彼女が下宿をたずねたのが最初だ。
 もよは、出征中の小野に代わって、彼と同郷で親しいと聞いている海野実門に小野と佐藤の今後のことを相談するつもりでいた。ところが、あいにく海野は外出していた。
 海野にかわって彼女に応待したのが牧水だ。ピンチヒッターに過ぎなかった牧水が、むしろ当の海野よりも、もよと親しい関係になったわけだ。
 脚気を病む牧水を実家に誘ったのも、遠く宮崎県という九州の南の果てから来ている学生に対する単なる同情からだけだったのか。
 海野が東郷町福瀬に健在なころ牧水取材のため一日たずねたことがある。三十七年の夏の盛りであった。
 福瀬小学校まで自ら出向いてくれた海野には、老いてなお朝日新聞東京本社在勤中をしのばせるダンディさがあった。そのことを鮮やかに記憶している。  牧水との麹町時代の生活ぶりを聞いてメモしおわったあと 『牧水が東京で初めて親しくした内田もよ。彼女との関係はどうだったのでしょう』。
 同郷の大先輩は、ちょっと考えたうえで 『そうねえ。特別な関係はなかったね』
 そう答えただけで言葉を継がなかった。
 私は当時、宮崎日日新聞に『郷土の先賢物語・若山牧水』を執筆中だった。  日向市細島の御鉾ケ浦の丘に建つ牧水歌碑に刻まれた歌

 ふるさとのお秀が墓に草枯れむ海にむかへるかの岡の上に

 この歌に詠まれた細島出身の日高ひでと牧水の間についていろいろな説があった。
 牧水は、彼女の花開かぬままの突然の死をいたんで親友平賀財蔵に
 『君、秀さんは死んだよ。細島の秀さんはもうこの世には居なくなったよ』で始まる悲痛な知らせを書き送っている。

 吾木香すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ

 も彼女への挽歌である。
 このために、とくに宮崎在住の牧水ゆかりの人々の中には、牧水とひでとの間に恋愛感情の存在を想像する人もあった。一方、研究家大悟法利雄氏ははっきり否定している。
 そうした事情もあって、もよとの関係を聞いたのだが、最も当時を知る海野は、『特別な関係はなかった』と、明言した。
 若い取材記者は肩すかしを食った。
  (閑話2)海野の言葉じたいに疑念をはさむ余地はなかった。だが私は思った
  『それにしても、特別な感情なしに若い内田もよが、ああまで積極的に世話を買って出るものだろうか−』。
 明治の娘はそうしたものだったよ。重ねて質問すれば海野はそう答えたかもしれぬ。だが、そうはしなかった。
 といって、『特別な関係はなかったね』を鵜のみにしたわけではない。良妻賢母の躾きびしい当時の娘にも晶子の『熱き血潮』は脈打っている。
 牧水はともかく、もよには秘やかな思いがあったに違いない。同じ東郷の大先輩海野の証言?に声にならぬ反論をしつつ、午後の太陽が仮借なく照りつける福瀬小学校の坂を下って帰った。
 その想像を裏付ける、と思うに足る手紙を後日受け取った。
 当時、高鍋町に健在だった歌人安田尚義から『内田もよ』について知らせてきた。副題に『牧水をめぐる女性の一人』と、牧水と同年代、同学(早稲田)の老歌人は付記していた。
 それによると、安田には牧水が玉川村で療養した頃から二年ほど後、もよとの縁が生まれている。彼女は当時、静岡県出身で早稲田大学法学部の学生佐野某と結婚していた。
 牛込区矢来町に往んでいたが、佐野の親元からの仕送りだけで一戸を構えるには台所が苦しい。それで素人下宿をすることにした。
 たまたま安田は、同郷て同学の手塚麒一(後の武藤)と下宿を共にしていたが、そこを出る考えだった。それで読売新聞に『下宿求む』の広告を頼んだ。渡りに舟で佐野から連絡があって世話になることになった。
 同家はその後、学校に近い早稲鶴巻町に引越したが、安田、手塚も一緒に移った。
 もよは、色白の気立てのやさしい美人だった。ただ、同じ宮崎県というので、牧水のことが話題に上ることがあった。とたんに佐野が不気嫌になったので、以後、彼がいるときは牧水の話はタブーになった。
 安田は明治四十年春に徴兵検査を受けるが、都市の青年は筋肉薄弱だから、ここで受けると甲種合格で兵隊にとられる。郡部で受けなさいーと、主婦もよのすすめで、玉川村の兄の家に寄留した。そして検査を受けた。
 案の定、第二乙種の査定で召集を免れた。
 牧水同様、もよと彼女の兄に世話になったわけだ。安田は『−何か不思議なゆかりのようである』と書いている。三十八年二月十五日差し出しの手紙にそう書いている。
 海野の証言にかかわらず、もよは牧水へのほのかな思いを抱いていた−と確信した。 
病 む 日
(16p目/16pの内)





 挿画  児玉悦夫
大学かいわい
(1p目/10pの内)





挿画 児玉悦夫
牧水と安田との関係も浅くない。
 安田は明治十七年四月十九日、児湯郡上江村(現高鍋町)の素封家に生まれている。秋月藩の藩校明倫堂の後身高鍋学校から東京郁文中学校を経て早稲田大学に入学、四十年に卒業している。
 函館商業、県立第一鹿児島中学に勤めたのち、昭和二十年に高鍋町に帰った。その後は農地委員、司法委員、調停委員など公職にある一方、作歌、著述に励み、県文化賞、高鍋町名誉町民の称号を受け、四十九年十二月二十四日に没した。
 安田が、歌作に真剣に打ち込んだのは、大正十年ごろ、太田水穂の歌論に共鳴してからだ。水穂主宰の『潮音』に入会、昭和二年には歌話『山茶花』を創刊するかたわら『潮音』の顧問選者として後進の育成に尽した。
  『潮音』以前から、牧水の『創作』にも多くの作品を発表していた。当時、同郷、同学の若き歌人として牧水、安田の芸術的交流があったわけだ。
 また、牧水は尾鈴山の北麓に生まれ、男性的な山容をあおいで育った。一方の安田は山の南側の農村に生を受けた。南側から見る尾鈴はながい山すそを引く女性的な姿で人に接している。
 この二人の歌人に、同じ尾鈴山を詠んだ名歌がある。

 ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきてをり (牧水)

 尾鈴山ひとつあるゆゑ黒髪の白くなるまで国恋ひにけり   (尚義)

 牧水の歌は生家の裏山の碑に、安田の歌は県立高鍋農業高校正門わきの碑に刺まれて、生前、二人がしたように北と南から、故郷の山に対している −白秋との同宿生活は文学的な刺激の多いものになった。海野と夕食抜きの芝居見物をした翌日、白秋と関口から戸山ケ原の一帯を歩いた。
 前に中林と彼の下宿をたずねてうなぎを馳走しになったことがある。それ以前にもあった。その時、彼の蔵書が多いことに一驚し、うらやましく思った。
 この日、彼と散歩の間、詩や短歌、芸術について語り合った。持っている蔵書の多くを読了し、そのうえに立って特に新しい詩作について独自の理論を持っているのを知った。
 話は下宿に帰り、夕食後白秋の部屋に誘われてからも続いた。
 牧水は、歌にしろ詩にしろ、白秋が自分の一歩も二歩も先のところ歩いているのを覚った。それでいてひけ目よりもむしろ、同年の久留米出身の同期生に兄事したい、そんなあこがれに似た思いさえ抱いた。
 自室に帰ってからも快い興奮にひたった。
  九月二十四日に登校した。二学期になって初めてだ。坪内逍遙の講義を聴いたが、長い欠席で少々勝手が違う思いだった。
 中林蘇水もこの日になってようやく出席したと言う。つれだって下宿に帰った。ひどくなつかしいものに思われたからだ。
 二人で町に出ようかと、話に出たが、牧水も玉川でつかい果たして無一文。中林も『実はぼくもだ−』と、頭をかく始末。たがいに相手のふところをあてにしてのことだった。
 仕方がないので、本郷弥生町の坂田をたずねて、それとなしに金の話を持ち出したが、彼もないらしい。とうとう無心を切り出せないまま別れを告げた。
 二進も三進もいかない。
 から財布を振って弱り切っているところに内田もよからたよりがあった。明日、来るという。
 その日は、学校は休みにして終日下宿にいることにした。
 もよは、姪の花子とほかに一人、幼い子を連れて午後三時すぎにたずねてきた。
 つい先日別れたばかりなのになつかしかった。思えば、玉川村を去って以来、何に彼につけてもよとの明け暮れを追想していた。
 胸のうちを明かしたわけでもない。もよが自分をどう思っているか、聞いたわけでもない。それでいて、忘れられない存在。それが内田もよであった。
 下宿の部屋に三人かあげた。手伝いの少女が気をきかして茶菓でもてなしてくれた。
 別れたばかりで話とてない。それでいて部屋中が明るく温かいものに感じられて、時間がたつのを忘れていた。
 もよは、連れに気を使って三時間ほどいて帰って行った。
 土産に持ってきてくれた、美しい端切れを継ぎ合わせて作ったひじかけと、きんちゃく、それに裏山で自分が拾ったというゆで栗。もよの心のあたたかさがこもる品だった。
 それだけに、子供らをまじえての雑談で別れたことが、心残りであった。
 玉川にいても、帰ってからも、ああも話したい、こうも聞いてみたい。そんな思いでいっぱいでいながら、会えばとりとめもない話でおわる二人であった。
 ふところに金でもあれば、もよらを連れてミルクホールにでも案内がてきる。それもままならないいまの境遇。わびしさをかみしめていた。
 金が届いたのはその翌日。都農の河野佐太郎から毎月決まりの三円を送ってきた。
 早速礼状をしたためたが、転地でそれなりに出費がかさんでいる。察してくれるだろうと思った自分があまかった。


   
つづき 第32週の掲載予定日・・・平成20年7月6日(日)

大学かいわい
(2p目/10pの内)





挿画 児玉悦夫
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